清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2009年08月

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日の峰教室の中楠さんの、色遊びのドリルです。

色遊びはパレット上での絵の具の調整、混色をスムーズに行わしめるための原理の把握を旨としたドリルです。

そのステップは6段階あり、ここにご紹介したのは黒の色遊びと呼ばれる5番目のドリルです。

赤青黄の3色を混ぜて黒を作ろうとする過程で、色の理解が深まるようこのドリルを設計しました。

黒に近づけようとする努力の中で、さまざまな微妙な色が出現しているのが美しくて、写真を撮りました。この中に赤、青、黄が含まれています。


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北野栄子さんがパレットで色を作っています。

パレットで色を作る時間が増えてきました。

通常私は右利きの人はキャンバスの右にパレットを置いて描くと描きやすいですよ、と申し上げていて、この日も北野さんにそうアドバイスしようかと思ったのですが、制作に没入している様子を見てやめました。

パレットをご自分の正面に置いて、一生懸命色作りに励んでおられるのと、おそらくこの方が作業性が高いのだろう、と思ったからでした。

画家はキャンバス、画面上で制作をすると思われていますが、やや誇張して言うとそうではありません。

料理は皿の上で行わず、キッチンで行いますが、絵もしかりです。絵の具は、画布に置かれる前に、パレットで調整されなければなりません。

この、パレット上での絵の具の調合が、大切なのです。

北野さんが夢中でそのような仕事をしていましたので、紹介させていただきました。

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先日そごう前で絵を描いていると、二人の若い女性がこの絵をとても気に入ってくれました。
神戸の街を、このようにかわいらしく描くという発想とセンスに感心したそうです。

その素朴な驚きを含んだ声援は嬉しかったです。

私は、自分がアトリエで行ってきた黄→赤→青の絵の具を順に乗せていくという手法の中途の過程を、今回初めて大勢の人の前で実践したのですが、これまで当たり前に行ってきたことが、そのように受け取られることが逆に私には新鮮でした。

「自己変革」と力んで、シリアスに描いている作品を二十歳代の娘さんに「かわいい!」と感心される。これがやはり「世界」の中にとびこんで制作しなければ得られない、「世界」の風通しのよさだと思います。

こうしたできごとを爽やかにうけとめ、、そして私は再びシリアスな位置に立ってこの絵を描いていきたい思います。

この制作は、私を先生であることから解放します。プロであることから解放します。

一人の見習い。
何の見習いか分かりませんが、私は自身がそのように感じられるこの時間を、とても幸福に感じるのです。





















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思考を先行させて描くのではない。
システムによって描くのではない。
手を先行させて、なおかつオートマチックであってはならず、常に目覚めていて能動的な意志を持って描くこと。

10月3日から始まる個展にむけた作品作りの中で、そういったものを求めていると書きました。

そのような試行錯誤の制作の合間合間にレッスンがあり、今日は久しぶりのキッズ(小学3年生以下)の日でした。

写真の安部佑二郎君は平成16年生まれの若手アーティスト。
今日一日のレッスンで4枚を仕上げました。
恐るべき生産量です。

あかん!負けそうや!

こういう彼の恐竜ぶりが、私がレボリューションと呼んで目指そうとする作家のありように近いと思い、リスペクト(尊敬)をこめて日記に掲載させていただきました。

写真を何枚も撮りましたが、佑二郎画伯は1枚もまともな顔をしてくれませんでした。ぐすん。

ちなみに佑ちゃんは素直ないい子です。そしてレッスン中はかなり寡黙。




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私の個展が10月1日(木)から開催されると申し上げましたが、10月3日(土)から開催に変更されました。よろしくお願いします。


昨日は午後から、そごう前で絵を描きました。

作品の中に何か根源的で急進的なものを表したいと思っています。

一つ前の日記では、自己変革の希求という言葉でその思いを申し上げました。
かつて作り上げた方式に依らず、新しい制作実践のフレームを探し求めています。

その一つに、対象空間の中に身を浸して描くという試みがあります。
作品が行為の結果であるならば、行為そのものの強度を上げてみよう、という発想です。

例えば、これまで私が写真を見ながら描いてきたのは、主観を排して機械のように描くという、行為の強度の一つです。
しかしメソッドが確立してくると、もはやそれは量産を可能にする便利さとして機能し、先に日記で述べた、戦慄のごときものが制作実践の中に潜まなくなってしまいます。

そうした時に、題材をジャーナリスティックなものに求めて戦慄の欠如を充当する、というのは一つの有効な考えでしょうね。

けれども今私は、作品のコンテンツ(=内容)ではなく、描く方式において新しい、冒険的な実践を求めます。

そのような希求のために、強度を有する新しい実践を求めて、写真を見ながらマシーナリーにシステマティックに描くことから、私はおよそ正反対の位置にやって来てみた、と一応自己分析できるかもしれません。
一つの閉じた世界(写真)を枠の外・アウトサイドから固定したシステムに依って把握し描き表すという実践から、世界(写真)の中に入って、インサイドからあらゆる知覚を動員して瞬間瞬間生じた意志に拠って描く、という方式に移行してみよう、と。

このことについては、もう少し日記で独白していきたいと思います。







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