
個展に向けての制作を続けています。
私は1995年頃からずっと寂寥感の漂う都市の風景を描き続けていましたが、数年前からその主題にやや飽きていました。
巷間で団地や工場がもてはやされて、「私の聖地」がキッチュ(=通俗)と化したことにすねていたのかもしれません。
ひそかに思い続けていたクラスの目立たない女の子が、思いがけず男子の人気を得て愉快そうにしている時に抱くのに似た感情でしょうか。
けれども、「レボリューション」を念仏のように唱え、どうすれば激しい情熱を作品にこめられるか模索した後に改めて実感したのは、一度は倦怠を感じたはずの工業地帯、港湾、高速道路、団地、郊外、鉄塔、街道など、寂寥感や疎外感を漂わせた都市風景を描いているときが、やはり最もどきどきするんだなあ、ということです。
先日映画「イージー・ライダー」を観たときも、ちらっと映った夕陽をあびる工業地帯の姿が切なくてどきどきして、とても重要なものに感じられました。
また十代の頃、単車で西九条の工業地帯に迷い込んで容易に出られなくなったことがありましたが、その時も夏の日差しに幻惑されるような焦燥感の奥に、何かとても重要なものに直面した戦慄的な気分とともに恍惚が横たわっていたのを覚えています。
あの荒涼とした工業都市が、なぜ私にとって懐かしいのでしょうか。
不思議です。
芸術はモード(=流行の様式)の追求ではありません。
今やメディアで脚光をあびた団地や工業を描くことが周回遅れのように見えても、私はやはりこの主題に向かうとき、最も真剣になります。芸術の主題はそいうものであるべきだなあと今、思います。
クラスの男子にもてて何だかしらけてしまったけれど、やっぱりぼくはあの目立たない子が好きだ。好きな子を流行云々で選べはしない、という感じでしょうか。
心の内から湧き出る感情をいつも大切にして描きたいです。
たとえその主題が新しくもなく、一見静けさをたたえた描き方であっても、真剣で本当の気持ちであるなら、それには芸術の資格があります。
しばらく独白が続いていますね。
自分のことばかりで申し訳ありません。
個展前の自己確認作業を、皆さんに受け取って支えていただいている自分です。
ありがとうございます。
あと少し、がんばりますね。
しばらく気持ちいい日が続いています。
引き続き日々好日でありますように。