清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2009年09月

イメージ 1
個展に向けての制作を続けています。

私は1995年頃からずっと寂寥感の漂う都市の風景を描き続けていましたが、数年前からその主題にやや飽きていました。

巷間で団地や工場がもてはやされて、「私の聖地」がキッチュ(=通俗)と化したことにすねていたのかもしれません。

ひそかに思い続けていたクラスの目立たない女の子が、思いがけず男子の人気を得て愉快そうにしている時に抱くのに似た感情でしょうか。

けれども、「レボリューション」を念仏のように唱え、どうすれば激しい情熱を作品にこめられるか模索した後に改めて実感したのは、一度は倦怠を感じたはずの工業地帯、港湾、高速道路、団地、郊外、鉄塔、街道など、寂寥感や疎外感を漂わせた都市風景を描いているときが、やはり最もどきどきするんだなあ、ということです。

先日映画「イージー・ライダー」を観たときも、ちらっと映った夕陽をあびる工業地帯の姿が切なくてどきどきして、とても重要なものに感じられました。
また十代の頃、単車で西九条の工業地帯に迷い込んで容易に出られなくなったことがありましたが、その時も夏の日差しに幻惑されるような焦燥感の奥に、何かとても重要なものに直面した戦慄的な気分とともに恍惚が横たわっていたのを覚えています。

あの荒涼とした工業都市が、なぜ私にとって懐かしいのでしょうか。

不思議です。

芸術はモード(=流行の様式)の追求ではありません。
今やメディアで脚光をあびた団地や工業を描くことが周回遅れのように見えても、私はやはりこの主題に向かうとき、最も真剣になります。芸術の主題はそいうものであるべきだなあと今、思います。

クラスの男子にもてて何だかしらけてしまったけれど、やっぱりぼくはあの目立たない子が好きだ。好きな子を流行云々で選べはしない、という感じでしょうか。

心の内から湧き出る感情をいつも大切にして描きたいです。
たとえその主題が新しくもなく、一見静けさをたたえた描き方であっても、真剣で本当の気持ちであるなら、それには芸術の資格があります。

しばらく独白が続いていますね。
自分のことばかりで申し訳ありません。
個展前の自己確認作業を、皆さんに受け取って支えていただいている自分です。
ありがとうございます。

あと少し、がんばりますね。

しばらく気持ちいい日が続いています。
引き続き日々好日でありますように。





































イメージ 1
芸術の秋ですね。

写真は制作中の作品たちです。個展前ですがほとんど未完成です。

この状況をめぐって、私の心を安んずる二人の芸術家を挙げたいと思います。

一人はアントニオ・ガウディ。いま一人はレオナルド・ダ・ヴィンチです。

私はガウディの建築を特に好むわけではありませんが、彼が私に与えてくれた刺激が二つあります。

一つは建築界の潮流に流されず、オンリーワンの世界を突き進んだこと。彼には内なる泉がありました。そしてその泉を愛する力がありました。人がなんと言おうと。

いま一つは、最新の技術を用いてサグラダ・ファミリア教会を早く完成させるという道を選ばず、職人のていねいな手作りを採択したこと。それゆえに未だに完成していないということ。


私は美術作家という、普遍的なものを作ることを志すべき職業に就いています。この仕事に必要なのがガウディのような姿勢だといえます。

私は最近この電子日記の中で「レボリューション」を標榜していますが、標榜しても実は何をしていいか分かりませんでした。けれども今、それが何なのか、少し分かり始めた気がします。
それは「私の仕事はまだまだお客様に粗相をしないよう作法を守ることに追われていて展覧会に間に合うよう整合させている域を出ていない」ということです。それは作家の仕事ではありません。

「レボリューション」を掲げた私は、自分の作品(の外観)をモデルチェンジすることばかりを考えていました。しかしそれは的外れだったと思います。

外観の変化は行為の結果です。行為は思考の結果です。

私の思考が変われば、思考は制作の過程の随所に反映して結果的に作品の質を変えるでしょう。

「分かり始めたマイ・レボリューション」とは、「作品のレボリューションは、外観ではなくまず思考の位相で図られる」という発想転換、そのものを指しています。

それはアルチザン(=職人)からアーティストへのメタモルフォーゼ(=全く新しい変化)だと捉えることもできるでしょうね。モナリザの模写を巧みに行う人はアルチザンです。1番目のモナリザを生み出した人はアーティストです。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、あのような作品を作る腕があったから画家の地位をアルチザンからアーティストに引き上げたのでしょうか。

明らかに違うと思います。

彼の世界認識(=思想)が、過去に類例のない質を作品にもたらしたから、彼の作品は芸術作品として位置づけられているはずなのです。
工芸ではなく。

作品の質が、人々にそれまで味わったことのない感情をもたらしたとき、それは工芸のカテゴリーから外れ、芸術というカテゴリーに組み入れられたのだと思います。
思考が全ての始まりだということです。

レオナルドにも、今の私に与える二つの刺激があります。

一つは、今日彼の作品が重要なのは、彼の世界観、思想を反映したものだから。作品と呼ばれているものの中には、メモや雑記が多く含まれています。

いま一つは、未完成の作品でも、それはもはや重要ではないということです。観る人に重要な変化が起こるならば、完成しているか否かは重要ではありません。


そういう示唆を、上に挙げた二人の巨匠は与えてくれます。



大きな連休が始まりました。

さわやかな日中、そして秋の夜長、心静かにお過ごしくださいね。

ではまた。


イメージ 1
今日は久しぶりの雨ですね。
しかし写真は水曜日です。
良く晴れたさわやかな日で、描いていても気持ちよかったです。

この日は左手で描きました。
画架の向きが今までと反対です。

右手で描くと、達者に見えてしまう。職業臭見たいなものを消したいと思ったのです。

しかしいざ描いてみると、左手、動かないものですね。
こんなにも違うものかと驚きました。

生徒さんはこういう状態で描いているのですね。
頭が下がる思いがしました。

自分が左手で絵を習いだしたら、皆さんのようにうまく描けるだろうか?
あるいは素直に学べるだろうか?

今までに作り上げたものを目下、解体しています。






イメージ 1
8月2日にテレビ収録があったと申し上げましたが、その放送が9月3日から始まりました。

宝塚スカイステージというCS放送なので契約しないと見られないのですが、そちらのホームページに番組詳細内容が掲載されていましたので、ご紹介いたします。

機会があれば見てみたいですね。



番組名:
Brilliant Dreams#55「凰稀かなめ」~personal~


放送日:
2009年09月/ 03(23:30)、06(19:00)、08(15:30)、11(11:30)、14(23:30)、16(08:00)、18(16:30)、22(01:30)、23(21:30)、27(13:00)



番組詳細が掲載されているページ:
http://www.skystage.net/Prgm/Detail/4188.html



番組内容:
各組の人気スターの様々な魅力を紹介する番組。2回連続シリーズで、第1回は「stage」、第2回は「personal」。今回は星組・凰稀かなめの「personal」編をお送りする。今回は、絵を描くのが好きで、高齢者の方と触れ合いたいという凰稀が絵画教室に参加します。まずは絵画の講師・清原健彦先生の指導のもと、教室に参加している高齢者の方々と一緒に「徐行描き」に挑戦。徐行描きとは、ゆっくりていねいに描くこと、物をよく観察することを習得するための練習方法。対象物をじっくり見ながら描くことによって、自身の新たな一面を発見したと凰稀は言います。続いては、クロスハッチングという塗り方で、3色の色鉛筆だけで絵に色付けしていきます。絵画を描きながら周りの参加者の方々と会話したり、休憩時間に皆さんがこれまで描いた絵を見せてもらったり、積極的に交流する凰稀。そして、今回なぜ高齢者の方々と触れ合う場を希望したのか?についてじっくり語ります。それは凰稀の祖父との思い出、祖父に対する想いに関係がありました。そして、凰稀の絵の出来はどうだったのでしょうか?どうぞお楽しみに!

イメージ 1
秋らしくなりましたね。
芸術の秋です。
お元気ですか?

写真はそごう前で制作中の作品です。

制作が進むと、いつも浮上してくる問題があります。
自然主義と表現主義の相克です。

私はいつも表現主義から出発します。内面のプリミティブな要請に従います。色や筆にこめた思いを大切にします。客観性・整合性を気にしません。声高に、自由に、制約なしで、でもこだわりをもってていねいに描きます。

やがて無制限・無秩序な絵の中に今度は自然のリアリティが要請され、自然主義が登場します。主観を抑えて目の前の自然(ここでいう「自然」は「内面」に対置する概念で、「対象」と言っても差支えないでしょう)を忠実に描くことによって絵に強度がもたらされるのです。
その時、整合性と秩序が主導権を握り始めます。

滅私によって絵に強度が獲得され、ストイシズムによって美しさが漂う。それが私のいつもの戦術でした。

こつこつ積み上げることでしか出ない美しさがあり私はそれを得意技にしてきました。しかし今、この構築性を壊すのが私のレボリューションだろうと思います。

指令:美しい破壊を絵にもたらすこと。

破壊というものには何かカタルシス(=浄化作用)があります。
アクション映画は破壊ばかりやっていますが、破壊には何か気持ちいいものが内在しているのでしょうね。でも誤解しちゃいけないのは、アクション映画の監督やスタッフや俳優が飲んだくれて不機嫌になって暴れまくって、あーすっきりしたぜ、と叫んで仕事をしても、すばらしい破壊の映像などできないということです。
破壊が美しくあるためには、極めて構築的な、そして細心の注意を伴った、誠実な意志が大切です。

構築的に、ていねいに、注意深く、祈るように、しかし決然と破壊する。

それが私のレボリューション。

今まで絵を描く時、いつも必ずといっていいほど、絵の中で自然主義と表現主義が戦ってきました。
そしてその相克に於いて、ほとんどいつも構築と自然主義が勝ってきました。
この絵にはもっと破壊と表現主義をもたらしたい、と思います。

それが私のレボリューション。


今日は独白を読んでくださってありがとうございました。

ほとんど自問自答ですね。すみません。


ではまた来週。

よい週末をお過ごしくださいね。









































































↑このページのトップヘ