清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2011年04月

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国立民族学博物館本館の常設展示。

人智を超えたもの、おそろしいものに触れるとき、なぜか同時に安らぎも感じるような気がするのですが、あなたはどうですか?





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こうした建築を見ていると、戦争という厄災から立ち上がって、過去の呪縛からダイナミックにジャンプして、願いを持って新しく飛翔しようとした、祈りにも似た日本人のモダンへの強い欲求を感じます。

そうだ、復興には願いと祈りが付随しているのですね。

戦後の建設と前進の影には、いつも鎮魂というテーマが寄り添っていたのですね。

楽天家たちの夢でもあると同時に、亡くなってしまった人への慈しみと、古いもの(システム・生活様式)へのいたわりがある。


失ったものへの慰撫と、敢然と立ち上がろうとする強い超克の意志が合わさったものが、この時代の色々な意匠の中に、こめられているのでしょう。

そうだ、きっとそうに違いない。

武満徹の音楽にも、谷川俊太郎の詩にも、そういう気配が濃厚にある。

そうだ、きっとそうだ。

万博の頃の意匠に強く惹かれるのは、きっとそういうわけがあるのに違いありません。

これは仮説です。

ですが、私の仕事は学術的に実証することではなく、ものを創造することですから、これで、この気づきで充分なのです。

意志は形に反映すると、私は信じていますから、これは意義深い気づきかもしれません。

鎮魂と超克、そして楽観主義。

近代様式の中に、そうした強い精神的支柱が立っていたのだ、と思うのです。

そしてそれは、がれきの中から立ち上がっているのです。


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立ち入ることができなくなったエキスポランド跡、すなわち、「ボクラノ近代遺跡」。

こうなると改めて憧れが強くなってしまいます。

いや、これは越境せよ、という挑発だととらえたい。

あの楽天家たちの作り上げた格調と崇高を取り戻せ。

大きく、そしてポジティブに考えて、近代の光と影のその向こう側にに超えて出よう。

そのために私は、いい仕事をしようと思います。

今日もいい絵を描きたいと思います。



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今日は土曜日ですが、レッスンはお休みです。

従来毎週だった土曜日のレッスンを、4月から月2回にしました。

そのおかげで絵を描く時間を増やし、作家活動に力が注げるようになりました。

しかし最初に空いた記念すべき土曜日、4月9日の時間は、東北地方へのボランティアにあてました。

土曜日レッスン時間の削減に対する生徒さんのご理解ご協力が、震災支援を可能にしたといってもいいと思います。

そして空いた2回目の土曜日の今はこのブログを書いています。

土曜レッスンに毎週来られていた生徒さんには感謝しています。

レッスン日は現在、月8日(スケッチ大会含まず)。

大学も退職し、制作活動に専念できる体制が整ってきました。

皆さん、ありがとうございます。


そして今週火曜日と水曜日は絵を描きました。

宮城県石巻市の専修大学の災害ボランティアセンターで見た、印象的な光景を題材にして、3点描いてみました。

今担当している広報紙の表紙の絵のために描きましたが、結局これらの3点は表紙には使わないと決めました。

どうしてもその広報紙の表紙にしっくり合うと思えなかったのです。

その2日間は無駄になりましたが、制作活動には、このようなロスが織り込まれているべきだと考えています。


いわゆる「想定内」であり、バックアップとしてストックしてあった補欠の作品を今回の表紙には使用することにしました。

清原絵画教室の生徒の皆さんにはよく知られている絵ですので、6月に発行される広報紙の表紙を見た人は、ああ、あれか、とすぐ分かると思います。

3月15日の当ブログに登場した絵です。

ちなみにその絵は、神戸市中央区の医療モールの廊下に飾られる予定です。

ピンチヒッターですが、私にとっては、頼れる「あぶさん」のような作品です。



外は冷たい雨。

今はストーブを焚いてこれを書いています。

ありがたいことだ…。

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さて、ここに載せた絵は被災地石巻の記憶です。

広大な大学キャンパス。高い鉄塔。無数のテント。
カラフルなテントの群れは、新しい波の象徴のようです。
義の波のようです。

前回のブログで義について触れましたが、ブログを書いていて、以前から私が飢餓を感じていたのは、義というものだったかもしれないことに気が付きました。

愛でも、思いやりでもない。洗練でも機知でもない。

そんなもの、十分すぎるほどあふれてるのさ。今の日本には。

正義でもなく、義務でもなく、義理でもなく、掟でもなく、道徳でもない。

いやいや、行儀よく、物分りよく生きることじゃないのさ。

もう、みんなお利口さんじゃないか。へんてこりんなことをする変なおじさんはもういない。


義。

それは、個人として譲ることのできない美学。

強いて一字付け足すなら、義勇でしょうか。

みんなのためでなく、自分の喜びとして、時にはルールを侵害してでも、プライドとして行う考えと行い。

3・11後の復興は、日本人一人一人の、このお義の発動にかかっていると言ってももいいのではないでしょうか。

くりかえしますが、義は公共のものでも、従うべきものでもなく、自分自身の美学の問題です。

何がかっこいいいのか、という問題。

ここに美術家の問題意識も関係してくるようです。

視覚的に美しいだけでは意匠にすぎません。

美術は、感動的に人を突き動かすものでなければならない。

画家として、私もそんな仕事をしたいものだと考える今日この頃です。

でもあまり大上段に傑作意識で気負っても、うまくいかないんだけどもね。

うまくいかないんだけども、志だけは高く設定する。

せめて志だけは、ネ。

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