清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2012年11月

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11月6日から9日までは遠山郷にいました。

今回は2日間山にこもって制作しました。

写真はそのとき滞在した古民家の窓のながめです。

豊かな自然の中でいいですね~と言われそうですが、古民家の周りには家も少なく、一人ですごす夜、本能的に怖いと感じる時があります。里の中で人に囲まれて暮らすのとは、ちょっと違うな、と思います。迫力があります。

2日間こもっているとき、どんな気分だったか。

少し重い話をしましょう。

絵を描きながら、私は殺人事件のことを思い浮かべていました。最近兵庫県で起きた暗く悲しいみじめな殺人事件の印象から、どこかで観た関西のすさんだ記憶の光景が、なにか頭の奥の方でちらついているようでした。

自ら奴隷になっていくという性質が人間の奥深いところに埋め込まれているのだ、という恐怖感がやってきました。

暴力によって隷属するのが怖いのではありません。

「落ちていく悦び」みたいなものが自分の中にプログラムされていて、奸佞邪知(心がねじけていて口先がうまく上手にこびへつらうこと)の輩に寄生されたら、寄生虫に吸い尽くされながら悦びを感じてしまうのではないだろうか、ということが怖いのです。

悲しい観念に包まれ、山の中で一人で絵を描いていると、凄惨な事件現場につきまとうような何かいやな印象が脳裏にちらっ、ちらっときらめき、そのたびに不快感に襲われます。

しかし、人間にはおそらく自分の記憶収蔵庫を検索するエンジンが装備されていて、最近の殺人事件が、自分の奥深くにしまいこまれている暗い想念(=記憶の残像)を刺激し、検索エンジンが記憶のデータに接触するたびに、そのいやな力はインパクトを弱めていったと思われます。呪縛は解けていった、と思えるのです。

絵を描きながら何度もいやな感覚が通り過ぎました。やがてそれらの感覚はあまり不快ではなくなり、あのような殺人事件が起きるには何かメカニズムがある、背景がある、と感じられるようになりました。

いくつかの家族を消滅させるような人間の、世界に対する復讐のような感情が起きてくるためには遠因がある。おれはそれらの諸問題の責任を引き受けるという「気分」「想念」が生まれました。宣誓はできませんがイメージは抱けるのです。

追いかけられる状態から、向き直って見つめる。

それができれば、物事はコントロールを増し、安定すると思います。ともかく不快な印象は消えてゆきました。

洗脳が存在するなら、洗脳からの覚醒も存在するし、洗脳されていない状態も存在するはずです。洗脳者を対象化できれば覚醒が訪れると思います。

社会を覆う大きな洗脳は存在するでしょうか?多分あるでしょう。

アートには大きな洗脳を知覚する力があると思います、そして観察し、分析し、理解する力があると私は思います。

大きな洗脳よりも俯瞰的な視点を持つこと。多分アートにはそれができる。

こうして私は遠山郷の山の中ですごし、無事8点の小品をしあげることができました。その過程で、上記のようなイマジネーションを得ました。

眼前の南アルプスが守ってくれたのかもしれませんね。














この人生劇場のたくさんの配役の中で、あなたはどんな役を選びますか?

私は芸術家君を選びます。この役は難しいかもしれません。でもこの役に挑戦することに迷いはありません。

少し前から今にいたるまで、自分は作家(芸術家君)になるのだ、いや、作家なのだという思いが強くなってきています。

当然、制作と作品数をもっと増やさないといけません。

制作をしている時間も、生産量も少なすぎます。

その場合、いずれは教室の時間を削る時がくることを思い描かなくてはなりません。

それがいつになるのかは分かりませんが、それには私の収入が関係します。作家活動によって得られる収入は少しずつですが増えています。

今私は、次のような形に移行することを一つの選択肢として考えて
います。

試案
〃遒4日間教室を開く。
第〇週の木・金・土・日、10:00~21:00開催。
3時間を一コマとし、受講料としてチケット1枚を支払う。一日に何コマでも受講できる。多分最大でも3コマでしょう。
ぞ貊蠅六圧楸佻会館やしあわせの村の会議室など。木・金はしあわせの村、土・日は三宮みたいな?
テ釮諒?■烹達叩■烹腺孱叩⇔詬?羔擬爾惑兒漾

いつになるかはわかりません。また、この形がいいかどうかも分かりませんが、私は絵を描くことに専念できる体制を作ろうとしています。

多くの生徒さんに不都合を生じさせてしまうと思いますが、清原は作家としての体制を作ろうとしているとご理解くださいますよう、お願いいたします。

できれば来年1月~3月の間に、1日教室の日を設けたいと思います。毎年やっている日の峰「冬合宿」です。場所が違うだけです。その時はもちろん流星等でお知らせしますので、ぜひおためしください。


























芸術家またはアーティストとはいったいどんな存在なのでしょう。

社会におけるアーティストの機能とはなんでしょうか。

40人の学級があるとします。中学3年のクラスです。勉強のできる人、スポーツのできる人、友達に何か役割を与えて活動をスムーズに運ぶ人、容姿の素敵な人、ケンカの強い人、過酷で理不尽なことを押し付けてくる人、いじめられる人、おもしろいギャグを言う人。

クラスに何か暗い事件が起こります。ある生徒のお気に入りの筆箱が無くなり、誰それがぬすんだ犯人らしいという噂が立ちます。事態は深刻になり、対立と動揺がクラスを覆い、全員の顔が引きつっています。

そのとき誰かの歌が聴こえてきます。スローなやさしい歌です。硬直していたクラスの空気が柔らかくなり、笑顔が見えるようになります。みんなの前向きなことばが聞こえるようになりました。クラスの中の芸術家君(またはアーティストちゃん)の歌が、みんなの気分を変えたのです。

これが、アーティストが機能している状態だと定義してさしつかえないと思います。

勇気、元気、気づきを与える人。自信を取り戻させたり、鼓舞したり、わくわくさせたり、反省を促したり、優しい気持ちにさせたり、賢くさせる人。あるいは、そうなれるかもしれないと思わせる人。

別の言いかたをすれば、クラスメイトのみんなに存在性を与える人だと言えます。

彼の表現に触れたら、自分などみじめでちっぽけな存在だと思っていた人も、クラスの中に存在性を与えられているという気分になるのです。私いやな子って心の隅で思いながら悪いことを続けてしまっている子は、それを止めるのです。本当の私はこんなんじゃない。

ですから本当のアーティストであり続けることは、簡単なことではありません。

それを考えたとき、「作品だけがすべてだ」という考えは捨てた方が良いのではないかと、よく思うようになりました。良い作品を作ることが一番大事なのではない。自分がどんな存在であるべきかが大事だと。考え方、姿勢が大事だと。芸術家の魂のありようと、作品のありようは多分一致していると思います。人としてどう生きるかについてずさんな人が、良い作品を作れることはないでしょう。

そしてただこなすために粗い仕事をするのはやめよう、と思うようになりました。人のために自分を犠牲にすることも。

私は、この恥ずかしい言葉、芸術家・アーティストであると自覚すべきだと思います。

中学ドラマの中で、あの歌うたいの役、誰がやるんだ?

おれにやらせてください、と思っています。

その役は、みんさんにもできます。




























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教室展は来年で10回目を数えます。

以下に書くのは具体的な案ではありませんが、こんな風にしてもいいかな?という「思いつき」の素案です。備忘のために少しメモしておきたいと思います。

^董Д肇◆Εャラリー1階正面のついたてと壁面に、合同作品をかざる。

今年3月のKAVC展で大きな絵を描いたとき、「人(少なくとも生徒さん)は自分のためよりも、属する集団のために活動する方が力を発揮するようだ」と感じました。この絵画教室には、オーケストラのような性質と機能がある。その要素をもう少し伸ばせるかもしれない、と思っています。

■隠芦鶺念宴会を開く?

毎年オープニングパーティを開いていますが、次回は展覧会場よりももう少し落ち着いた場所で開くのがいいかも?

例年の17:00からのオープニングパーティを簡素にして、19:00から近くの会場で宴会を開けないかな~と漠然と思っています。その場合例年オープニングパーティに使っていた予算の多くを宴会にあて、自己負担を少し軽くだけすることはできると思います。

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合宿2日目の朝のロビー。

私はごく最近になって茶の湯を少し、かじり始めた。

今年の夏から冬にかけて信州に滞在することが多く、異郷で受けたもてなしにこたえるには、「あいさつ学」とでもいうべき礼法を身に付けることが大切だと痛感し、何か学ぶ手立てがないものかと考えているうちに、茶道にはそれがあるんじゃないかと思ったのがその理由だが、他の関心もあった。

茶の湯に参ずる者は数寄者(=風流な人、もの好きな人)であり、バイタリティある野心家たちが策謀をきわめ斬り合いをした戦国乱世にあって、「美」の優位を掲げ実践した平和主義者たちであった。

数寄者は日本におけるアーティストの模範例であり、かれらは究極の美術家だと思う。戦国武将もその道を愛好し、競って弟子になった。

用意した器や花、多くの手順、所作の一つ一つが、そこに集った人々の精神的充足を決める。

彼らの作った美、あるいは美の概念はあまりに人々のエートス(行動規範)に影響したため、権力者に対する脅威にすらなった。そして為政者は暴力によって実際に彼らを死に追いやった。

茶の道に入ることは、そこいらに遍在する塵のような美をとらえ、拡大鏡で増幅し、味わい、そして仲間とともに共有するすべを勉強することを意味すると思っている。

塵のような美を見つけ、共有することが可能だと知ったとき、彼は「世界は美に満ちている」と悟る。

茶の湯が我々に導こうとしているのは、そういう発見だと思う。

様式(フォーマット)の重要性は、「発見のためにまずはつべこべいわず手順を守れ、そうすれば気づきがあるだろう」ということだと思う。

様式の存在意義は守―破―離の「守」の部分にあたるだろうが、破―離へと導くための手立てに過ぎないのだという認識が大切なのだろうと思う。

今回の合宿においては、「茶を楽しむときの気持ちで日常に目をこらせば美はそこいらに見つかるよ」ということを、私自身が実感できたように思う。

朝のロビーを見たときのうれしさは、そんなところからきているかもしれない。












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