
11月6日から9日までは遠山郷にいました。
今回は2日間山にこもって制作しました。
写真はそのとき滞在した古民家の窓のながめです。
豊かな自然の中でいいですね~と言われそうですが、古民家の周りには家も少なく、一人ですごす夜、本能的に怖いと感じる時があります。里の中で人に囲まれて暮らすのとは、ちょっと違うな、と思います。迫力があります。
2日間こもっているとき、どんな気分だったか。
少し重い話をしましょう。
絵を描きながら、私は殺人事件のことを思い浮かべていました。最近兵庫県で起きた暗く悲しいみじめな殺人事件の印象から、どこかで観た関西のすさんだ記憶の光景が、なにか頭の奥の方でちらついているようでした。
自ら奴隷になっていくという性質が人間の奥深いところに埋め込まれているのだ、という恐怖感がやってきました。
暴力によって隷属するのが怖いのではありません。
「落ちていく悦び」みたいなものが自分の中にプログラムされていて、奸佞邪知(心がねじけていて口先がうまく上手にこびへつらうこと)の輩に寄生されたら、寄生虫に吸い尽くされながら悦びを感じてしまうのではないだろうか、ということが怖いのです。
悲しい観念に包まれ、山の中で一人で絵を描いていると、凄惨な事件現場につきまとうような何かいやな印象が脳裏にちらっ、ちらっときらめき、そのたびに不快感に襲われます。
しかし、人間にはおそらく自分の記憶収蔵庫を検索するエンジンが装備されていて、最近の殺人事件が、自分の奥深くにしまいこまれている暗い想念(=記憶の残像)を刺激し、検索エンジンが記憶のデータに接触するたびに、そのいやな力はインパクトを弱めていったと思われます。呪縛は解けていった、と思えるのです。
絵を描きながら何度もいやな感覚が通り過ぎました。やがてそれらの感覚はあまり不快ではなくなり、あのような殺人事件が起きるには何かメカニズムがある、背景がある、と感じられるようになりました。
いくつかの家族を消滅させるような人間の、世界に対する復讐のような感情が起きてくるためには遠因がある。おれはそれらの諸問題の責任を引き受けるという「気分」「想念」が生まれました。宣誓はできませんがイメージは抱けるのです。
追いかけられる状態から、向き直って見つめる。
それができれば、物事はコントロールを増し、安定すると思います。ともかく不快な印象は消えてゆきました。
洗脳が存在するなら、洗脳からの覚醒も存在するし、洗脳されていない状態も存在するはずです。洗脳者を対象化できれば覚醒が訪れると思います。
社会を覆う大きな洗脳は存在するでしょうか?多分あるでしょう。
アートには大きな洗脳を知覚する力があると思います、そして観察し、分析し、理解する力があると私は思います。
大きな洗脳よりも俯瞰的な視点を持つこと。多分アートにはそれができる。
こうして私は遠山郷の山の中ですごし、無事8点の小品をしあげることができました。その過程で、上記のようなイマジネーションを得ました。
眼前の南アルプスが守ってくれたのかもしれませんね。