清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2013年06月

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昭和30年代の日本映画とかを観ると、不思議と新しく見えたりします。描かれた対象も描く手法も、革新に満ちていた。

その精神や様式を対象化して崇めるのではなく、その精神や様式から生命のほとばしりを抽出し、今を生きる推進力としたいものです。

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浮かんだアイデアをよくこんな風にメモします。
出力しないとアイデアは内側でくさるのです。

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瀬戸内海文明ということばは、愛媛県に住む彫刻家が話したもので、その言葉のひびきに私は惹かれました。約10年前の話です。

諸国(とりわけ日本の地方・辺境)を遍歴探訪する、行商のような生き方へのあこがれも手伝い、ここ2~3年の私は、著しく地方での活動が多くなっています。
そうした活動地域の一つが姫路の沖合にある家島ですが、その島にいると、瀬戸内海文明ということばがよく頭をよぎります。
エーゲ海文明、地中海文明のように、瀬戸内海にも世界史的な何かがあるんじゃないだろうか?何も普遍性ばかりが偉いわけじゃなく、ローカルはローカルなままでいいんだけども、そのローカルに普遍的な位置を与えると、何か面白いことがおきるんじゃないか?などといたずらっぽい考えがふくらむわけです。

画像は家島風景を描いてくださいという注文作品の途中段階のものです。絵はこの段階を通り抜けて、最終的には克明に描写されて完成しましたが、私はなぜかいつもこの「白い」途中段階に愛着を抱きます。
なぜ?前の投稿にも書きましたが、白いことで現世的なものから永遠性への移行が暗示されるのではないでしょうか。遠く去ってしまったもの、追憶、神の領域に召された残像、遺物という性質になるんじゃないかと。

白く塗るという行為は、近代西洋人が、かつて極彩色にいろどられていたであろう古代ギリシアの建築群や彫刻群を、せっせと白く磨いてルーブルに陳列するというねつ造すら犯してまであこがれたように、何か偉い値打ちを付加するものなのでしょう。私はそのあこがれを自分の内に認めます。白色様式(ということばあるのかどうか知りませんが)への希求は、ともすれば権威づけの要請にシフトしてしまう。

白色様式に帰依したいのか、それともそれを分析・評価したいのか、今の自分は未整理です。両方あります。でもそれはまあ、別に当たり前のことで、美術作家としては、「整理してから制作」はあり得ません。それはダメだと思います。制作を通じて独自の論考を通り抜け、何らかの概念なり結論を得ればラッキーですし、結論が出なくても、それはそれでいいと思います。美術における論考は、しょせんキャプションです。大事なんですけれども、制作がまず優先です。

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ジェッソという用語については少し整理が必要です。
もともとジェッソは白色顔料(石膏、白亜など)と、接着剤として動物タンパク質(ニカワ、ゼラチン、カゼイン)を混合したものでしたが、現代の画材メーカーがジェッソという名で出しているものの多くは、アクリルを接着剤に使用しています。
アクリル下地材と呼ぶ方が妥当じゃないかと思いますが、一般的にはジェッソと呼ばれて流通・使用されています。

以下のサイトで専門的な解説がされています↓
http://www.turner.co.jp/art/golden/technicaldata/justpaint/jp17/jp17article3.html

ちなみにひさびさに私が使用したジェッソ(=アクリル下地材)はオランダのターレンス社の物です。

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ジェッソ(正確にはアクリル下地材ですが、一般的な呼び方で記述します)などをを塗ってモチーフを白くすると、物がもともと持っていたポジションというか、役割が変わります。人間の日常生活を支え機能する道具から、何かを指し示す象徴、何らかの感情を喚起する記号になるのです。形而下の世界から形而上の世界に上昇すると言ってもいいかもしれません。

私はこれを「瀬戸内海文明」という構想に結び付けられないだろうか?と考えています。

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