清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2016年04月

2016年6月のカレンダーができましたのでご確認ください。
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第3土曜日の日の峰教室は第2週に変更になります。

今日からご注文の水彩画、制作開始。

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アルシュ紙に水彩 260×180mm
 
目標:5点連作をゴールデンウィーク中に完成。

/清原健彦

本日4月30日、兵庫県立美術館のフェイスブックで【鉄斎展・ある美術家の感想】と題して、私のブログ記事が紹介されました。ぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/artm.pref.hyogo/?fref=nf

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↓閲覧の際、兵庫県立美術館FBに「いいね」をしていただけるとありがたいです。
https://www.facebook.com/artm.pref.hyogo/?fref=nf

↓「富岡鉄斎展感想」4/26付のブログ

昨日描いた1枚の水彩画。
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ウォーターフォード紙(中目)に水彩 サムホール(227×158mm)
写真を使わず、直接肉眼で。
あるお世話になった人への、(ことばはないが)私なりの絵手紙。

兵庫県立美術館で富岡鉄斎展を観てきた。
2時間半観たが、全然時間が足りないよー。
いろんな切り口があろうが、まずアヴァンギャルドだということ。
様式美や職人的技巧が死ぬまでほとんど見えないところは見事だ。
南画だから、で片づけらる?片付かないと思うなあ僕は。
90歳まで青年だった。インテリ青年。バケモノ青年。何十年も描いてたら職人的技巧がにじみ出てしまうものだが、ついに出なかったな(ほぼ時系列順に展示してある)。
このアヴァンギャルド翁に梅原隆三郎や前田寛治がしびれてしまったらしい。
展観の最後のコーナーで戦前戦後の(それもベテラン)洋画家たちがこの翁にしびれたんだよん、と紹介してるもんだから、もう1回最初から観ましたよ。そしたらうわおれ全然観てなかったやん、となったのだが、もう集中力が切れとりました。時間切れと言うかテンション切れ。

鉄斎自身が俺は絵師ちゃうねん、文人やし。というスタンスを終生崩さず、鑑賞者にもまず讃を読ませてから画を観い、と言ってたらしい。本人がそんなスタンスなもんだから、今回の展示のキャプション(説明文)のボリュームが半端ないのである。個人的な感覚だが、あれはもう美術展示の範囲を超えてるんじゃないか。博物館という感じ。だからキャプションで述べられている故事来歴、逸話、画題の方に注意が向いてしまい、形式面、マチエールの方がお留守になってしまった。昨今の美術館展示は文脈重視傾向(作品や作家をとりまく時代背景や環境要因を重視する傾向)が強いと感じていたが、そして私はそれが好きだが、今日は特にその影響を受けて、フォルマリズム的視点、モダニズム的態度を完全に忘れてしまっていた。こういうことが起きるのがまたおもしろいとも思うが。

さて、一方表現主義やフォーヴと対比してみると、いわばあのグダグダ感がない。
冴えており、明晰な決断が制作中ずーっと持続してる感じ。特に淡墨と濃い墨の緩急使い分けはシャープである。かなり頭がよくないと、こうは描けないと思う。博覧強記というのではない、本当の智慧。

南画というムーブメントに鉄斎個人のポテンシャルが加わり、異様に型破りなバケモノみたいなものが出てきた。それでいて西洋モダンにつきものの魔的な要素が全く無い。この辺は戦前戦中「近代の超克」を模索していた芸術家たちを興奮とともに勇気づけたのではないかな、と想像する。

いろんな意味(文字の多様、技巧への非従属、インテリジェンスを画にどう発露するのか、真のインテリは一生青年のようであるらしい、ノマドであることと生活者であることの調和など、いやいやもっとほかにもあるはず。奥深く豊かなはず)で、モダン以後明確な方向性を見いだせないことでは同様の、こんにちの日本ローカルの美術家であるわれわれに、大きなヒントと刺激を与えてくれる展覧会だったと思う。

東洋の前衛性の正統継承者、鉄斎。岡本太郎と並べて観たい気もした。

↓買ってきた絵葉書を自分のラフスケッチに合わせてみた。
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時空のシャッフル、楽しいなー。

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翁のボディブロー、こりゃーじわじわ来るぞ…

/狂波羅健飛行 /清原健彦


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