清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2010年06月

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昨朝未明、サッカーワールドカップ、日本対デンマーク戦を見ました。

代表は1次リーグ突破という、素晴らしい結果を出しました。

今年の代表は非常に組織化されているところがすばらしいと思います。

門外漢の私にも、一隻の戦艦のように陣形がどうなっているのか、

どうにか分かります。

応援している国民もチームの一員という形になっていて、高度に組織化されていると感じます。

組織の歯車として最も機能している選手として、私は本田に注目しています。

本田のプレイスタイルには、独断専行、強い自己主張、下手をすればわがままとも受け取られかねない我の強さがあります。

しかしそれこそが、日本サッカーという組織が最も求めていたものではないでしょうか。

本田は、自分が歯車としてどんな役を演じないといけないかを理解している選手だと感じます。

空気抵抗と摩擦が生じるのを承知の上で、その役目を引き受けていると、私には感じられます。

そして私はアーティストとして、唯我独尊的に自分の価値観、自分の考え方を押し通して行く姿勢を見習いたいと思います。

それが、アーティストが社会という組織の中で機能する道だと思います。

一方、絵画教室の講師・代表として、岡田監督にも注目しています。

組織化を徹底させたことには大きな価値があります。

そして、ベスト4という、高い、そして不可能ではない、

そして明確な目標を掲げたことが、チームを一つにした大きな要因だったと思います。

すばらしいと思います。

やはりチームは、明確な目標があってこそ組織としてまとまるのだと思います。

多方向に、多様に展開する個性もいいものですが、

今の代表を見ていると、一つの明確な目標に向けて強く組織化されているから、

それぞれの個性がより際立っていると思います。

一つの大きなミッションが、多彩な個性を花開かせるのですね。

私も、教室に明確な目標を掲げようと思います。

例えば、ベネチアビエンナーレ代表に選ばれる作家や、教科書に載る作家を輩出するぞ!とか。

皆さんからも、一丸となって目指すべきよき目標があれば、

どしどしご提案ください。

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今日の、レッスン最後の相互鑑賞会のひとこまです。

幅広い年齢層で和やかにすぎるひと時です。

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稜大君の発表。

こうしたプレゼンテーションに慣れることは、

美術に限らず、すばらしい能力になると思います。

子供がクラスにいると、大人も刺激を受けます。

また、自ら大人クラスで学ぶことを希望する子供たちも結構多いのです。

こちらは大歓迎です。

大人の仲間に加わる気持ちがあれば、少々音を立てても、少々の私語も

大人にとって気にならないものです。

その子が同じ空間にいる人の存在をそれなりに気にしているなら、

不器用さゆえ、結果的に発生する音や動きは気にならないはずです。

問題は子供か大人ということではなく、

チームを大切にできるか否か、あるいは品格ノ問題ということになりそうです。











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2008年春から2年間、住んでいる町の

自治会長を務めましたが、今年の5月に任期が終わりました。

最近はその残務がありましたが、それもようやく片付きそうな気配、

ようやく「解放」されそうな兆しが見えてきました。

ようやく画業と、絵を教える仕事に力を注ぐ毎日に戻れそうです。

この期間、教室の方も行き届かないことがたくさんあり、

生徒の皆さんにはご迷惑をおかけしてきました。

流星は発行が滞っています。

ホームページは無茶苦茶。

さしずめ荒れ放題、草ぼうぼうの放置店舗ですね。

本当にごめんなさい!

これから、店(ホームページ)の手入れにも力を注いでいきますね。

ここ数年で清原絵画教室はコミュニティのようになってきましたが、

地域(もう一つのコミュニティ)の仕事から完全に解放されたら、もっとこちらのコミュニティを魅力的なものにしたいと思っています。

がんばります。

この教室は、自分にとって手ごたえとやりがいのある仕事です。

世の中では、よく芸術振興、企業などによる芸術支援が叫ばれたりしていましたが、

不景気になるとそれどころではなくなるのか、

最近はかつてほど聞かれなくなったように思います。

景気などに左右されず、芸術に生きることを貫けるかどうかが大切です。

こんなときに踏ん張った人は光る。

その意味では、今のような不景気に、

つまり財布のひもが固くなっているこの時代に

芸術に高い優先順位をつけ、芸術を伸ばし育てようとする人は本物です。

ですから、教室に来て下さっている生徒さんは、芸術振興の立役者ですし、主役でもあります。

振興する側でもあるし、振興される側でもあるということです。

そしてこの教室の仕事を推し進めている私も芸術振興に貢献していると、胸をはっていいと思っています。

生徒の皆さんに助けてもらってもいますし、

皆さんにスキルや考え方を提供することで社会の「芸術度」を上げていると実感してもいます。

かつてメセナ(企業などによる芸術支援)だ、アートあふれる社会だなどと掛け声盛んな時代には、「なんちゃって」アーティストも生きていけましたが、

むしろ今のような時代は、偽物は生き残っていけないと思います。

画家の中にも、いやな人、しょぼい人、性悪な人はいます。

けれども、そんな人でも、今、続けてやっていける人は信用できます。

私たちも本物であることを自覚して、あきらめないでがんばっていきましょう!

それにしても、自治会の2年間は勉強になりました。

多くの人から、え?絵描きが自治会長?と言われました。

私も仕事できるの?と自問し、実際多くの画家と教室の仕事が滞ってしまったことは反省しないといけません。

また、周りの人にはずいぶん迷惑をかけてしまいました。

自分が生産者で、待っている八百屋がいるのに、

自治会の仕事ために十分な作品を治めることができなかったのは、プロとして反省すべきことです。

けれども、この2年間の経験は、きっと生きてくると思います。

(いわゆるリアルな)地域や時代、社会とどう関わっていくのか、

これを欠いてはいかなる思想も、詩も、歌も、そして芸術も、無意味だと思います。

えてして世の中には、狭い「アートのためのアート」というような閉塞空間で、

高踏的なものに価値が置かれそうな誤解がありますが、本当にすぐれた芸術には、心を揺さぶる歌心があります。

本当にいいものには、本当にいい一級品の芸術には、肩を抱き合って、あんたのこの絵、いいよー、おっさん、と言いたくなる何かがあります。

人間臭さとかハートのような、あるいは愛みたいなものだと思いますが、本当にすばらしい作品にはそれがある。

それはきっとそれを生み出すマシーン=作者からどうしてもにじみ出てしまうものなのでしょうね。

そして、そのような作品には、往々にして洗練も備わっているように思います。


(ところで写真は生徒の太一郎君の絵ですが、ここにもそうした何かがあるようです。

とても楽しい絵ですね。)






















































































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興福寺・迷企羅大将立像。

四天王といい、十二神将といい、

仏を守る神様は皆戦闘服に身を包み、

怖い顔をしています。

怒っている。

怒っているのにその怒りの影響圏内にいると不思議と安心する。

最近、「怒り」について考えています。

なぜか、いつからか怒ってはいけなくなってしまった。

それ(=怒りを抑えること)はよくない。いっそ、悪です。

内から生命があふれるとき、それは「怒り」という形をとる。

怒りは、極めて活発な、健全な自立自助の営み、プライドの発露、自己の拡張なのだと最近気が付きました。

岡本太郎は「美の呪力」の中で次のように述べています。

「初めに怒りありき―私はそう思う。

はじめに神があった、ほとんどの民族の創世神話はそうなっている。しかし、私は、まず怒りが爆発したと考えるのだ。人間は全存在的な力をもって己に耐え、抑える。瞬間に、己れ以下であり同時に己れを超えた存在、対象として、神の出現を見た。怒りと闘いの条件として、相手として。そう思う。」

怒りを悪しき感情でなく、透明な爆発力と捉えてみると、非常に風通しがよくなる。

原子力に平和利用があるように、怒りにも平和利用があるはずです。

そんなことを考えながらこの迷企羅大将の写真を眺めていました。

日本美術には、今にも大暴れしそうな武神がいっぱい出てきます。

それにしてもこの迷企羅大将の怒り方はどこか微笑ましい。

こういうのを怒りの天才というのではないかしらん。

おおらかな、透明な怒り。

対象のない、無目的の怒り。

また、禅には活作略があり、師家が弟子を導くために、しょっちゅう張り倒したり机をひっくり返したりしています。

臨済は師の黄檗にろっ骨を折られています。

おそらく、同意のある暴力は精神的に何かを目覚めさせる力があるのでしょう。

ジミ・ヘンドリックスというアメリカのギター奏者はギターを焼いたそうです。

ザ・フーというバンドはギターやドラムセットを壊して有名になりました。

私はエレファントカシマシが好きなのです。

ボーカルが同年齢というのもありますが、啖呵の切り方がうまいのです。

たくさんのロックグループがありますが、エレカシほど無対象、無目的に外に向かって開かれ、朗らかに怒っているバンドはいないのではないかと、よく思うのです。

いやいや、もっとすごいのがいるよ、という人はぜひ教えてください。いざ探してみると、意外といないと思いますよ。

私は、最初、エレカシの超本気の歌を聴いて笑ってしまいました(ごめんなさい)。

エレカシはアカルイ。開いてる。そう、怒りは明るいのです。

きっと完全燃焼の怒りは、多分笑いと悟りと直結しているのだと思います。

最近、私は自分の国の古い芸術に、ラディカル(魂の根源を揺さぶる革新性)さを感じます。現代美術をやっているのに海外にも今日の美術動向にもほとんど興味がない。

でもそれは本来的なことだと思います。他のみんなの仕事が自分を助けてくれるなら、自分が仕事をする必要なんてないと思います。

現代美術は、新しいモードの開発ではありません。

真に「そう!それが俺の言いたかったことなんだ!それを待ってたんだ」と言わしめる仕事をすること。

それを誰かの既存の仕事に見いだせないとき、独自のものを自ら作るしかないのです。それが現代美術の定義でしょう。

既存の仕事につきつける否、否、否。

本当に価値のある仕事、自分を救済する作品は自分で作るしかない。

それのどこが悪いと言うのか。

当り前じゃないですか。

だから作家をやっているのです。

我もあなたも天上天下唯我独尊でなくては。































































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