清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2011年05月

今日は自分の作品を見てみます。

このブログの場をお借りして、「反省」してみたいと思います。

私はときどきレッスンで、

PLAN-DO-SEEという言葉を使います。

絵を描くにあたり、この3つの工程をしっかり行うことで、制作というサイクルの密度をあげようという企てです。

PLAN:計画:どんな絵にしようかとアイデアを浮かべ、イメージし、構想すること。

DO:計画したことを実行すること

SEE:実行したことを見ること。検証。反省。

SEEは必要ないと思われるかもしれませんが、非常に重要です。

パソコンで何かを編集し、プリントアウトしたことがある人なら覚えがあると思いますが、プリントアウトしてみるまでは、自分が考え、編集したものがどんな雰囲気で仕上がってくるのか分からない、ということはよくあるのではないかと思います。

絵を描く人に必要な行為はまず作ってみることです。

そして紙(油絵ならばキャンバス)に描きだすことです。

これを本番だと考えずに、テストだと考えて描くのです。

そして紙に描きだされた絵を見て、反省するのです。

反省とは検証であり、自分が成功していると感じたことや改善すべきことを明らかにします。

そしてなぜ成功したのか、その要因を考察します。まずいと感じたところも、なぜそうなったのか、要因を探ります。

反対に人が気に入っても、自分が納得するかは定かではありません。

また、ある人には気に入られても、ある人には気に入られないかもしれません。

ダリやエルンストが展開したシュールレアリズム絵画は、モンドリアンら、同時代の抽象絵画を推し進める画家たちから敵視されましたが、ある人たちには絶大な支持を受ける絵が別の人たちから嫌われるということはよくあることです。

自分の絵がどのような性質を持っているか、どんな人に受け入れられ、どんな人から拒まれるのか、そんなことも検証の対象になります。

あるいは保守的なのか、革新的なのか、といった要素なども吟味されます。

そうして反省したら、改善計画を立てて再チャレンジします。

つまり絵画制作とは、本番でありながらテストの連続なのであります。

オペラ歌手やフィギアスケートの選手がある1曲の演目を演ずるのに、

たった1回のドン!で演ずることはありえません。

限りない数の練習とリハーサルを重ねて、本番に臨むわけです。

絵もまた、数を重ねれば、質を上げます。

私は最近、1つの題材を3枚くらい描くことが多くなっています。

構図、色の濃淡、あざやかさ、タッチなど、実際にやってみないとイメージがわかないのです。

誇張でなく、1回描いたくらいでわかるわけがない、と思っています。

私のやり方はPLAN-DO-SEEよりも、

DO-SEE-PLANに近いのです。

1度やってみないと計画が立てられないのです。

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さて、ではこの絵をSEEします。

私は最近もっぱら一発彩色法を使って描きます。

私は水彩よりも油彩のキャリアが長く、自分で水彩を始めたのは絵画教室で教えるようになってからです。

それで、油彩ではおもに色層の重なりに魅力を感じ、透明色の重なりの美しさを活かした作品を多く描いてきました。

ですから自分の絵も教室での指導も、重ねを多用していました。

しかし最近はそれを抑えるようになっています。

真っ白い紙やキャンバスは、画面がもっとも明るい状態です。

白い画面は太陽光や人口の光を反射するからです。

この白い画面の輝きの上に透明の色が乗ることによって、スポットライトのように色が輝くわけです。

透明水彩では、この薄いセロファンのような色の層を重ねることによって美しさを出すことが、まあ本来的な使用法とされています。

ですからある程度色を重ねるのは、水彩画の場合、本来は良いことだと考えていいでしょう。

しかし、色を重ねることによって同時に白い画面は隠蔽されて、輝きを減じ、鈍くなっていることも確かなのです。

この間を平衡をとりながら描き進めていくわけですが、今の私は重ねによるハーモニーよりも、白い画面の助けを借りた輝度の方を重視しています。

この絵の場合は絵の上半分は重ねを用いています。

下半分はもっぱら重ねを用いない一発彩色法を用いています。

一発彩色法は面白い画法です、小さな筆致で隣へ隣へと少しずつ色を変えながら筆を運んでいくのですが、この方法は色面にウェイブのようなものを与え、密度をもたらします。

そして少しずつつ増殖する色の細胞が、今までの細胞群の見え方をどんどん変えていきますので、最後まで絵がどうなるのかわかりづらく、刺激的なのです。

この絵も、黄色い帯のような水田、緑のあぜ道、遠方の林の運筆に一発彩色法を用いていますが、置いた筆が絵の全体の様相を一変します。

そして、どうもうまくいっていないと思える状態でも、次の手の打ち方によって挽回し、さらにはまずいとおもっていたところが魅力的な部分になったりもするのです。

多くの人が上層に重ね塗りで克服しようとしていることを、このメソッドでは、横移動で行うのです。

先にも述べましたが、概して絵の具の発色は、単純に重ねが多いよりも少ない方がいいわけです。

白い紙の輝きの力の問題です。

したがって、たゆまぬ軌道修正の連続を制作途上で繰り返すには、重ねよりも一発彩色法を採用する方がいい、と考えるのは妥当なことなのです。

これは感覚の問題ですから、これを教条としてはいけません。

私自身は、重ねと一発の優劣をつけていません。

ただ、画像をご覧いただいて感じられるといいのですが、上半分は、いわば優等生的な描写です。説明が行き届いています。また、奥行きも感じられます。

一方下半分は、よく見ると平面的。モザイクタイルを貼り付けていくような手法ですから、そのような傾向をもつことは当然だと思います。

また、あぜ道の下の水田の水面にも重ねを使っています。

なんとなく達者そうな感じがしませんか?

これを払しょくしたくて、上半分も水面もできれば一発で決めたかったのですが、どうしても説明が行き届かず、マチエール=画面の美しさ、発色を犠牲にして説明を優先させて、重ねてしまいました。

どうしても分別くささのようなものがにじみ出てしまったように感じています。

画像では分かりにくいかもしれませんが実作を見ると、重ねによる白い画面の隠蔽率が、上半分の発色を鈍くしているのが、お分かりいただけるのではないかと思います。

上半分は白の不透明水彩=ガッシュを混入させて意図的に鈍くさせているので当然なのですが、それゆえに、一発で決めたかったと思います。

この作品はF4号で描いています。

普段はサムホール以下で描くことが多く、それよりも大きくなったわけですが、やはり色の量の見積もりが難しかったですね。

大きいとどうしても必要な面積に対して絵の具の含有量を少なく作ってしまい、その結果、水割りの度合いが増して淡くなってしまいました。

この辺の判断力を高めるためにも制作には枚数が、経験値が必要だと痛感します。


おっと、「いいところを見つけて言いましょう」でしたね。

あぜ道は好きです。

遠方の林の緑も好きですね。

これらの部分には、アクティブな、あるいはプリミティブな生命感のようなものをうまく盛り込めたような気がします。

人物、水面はうまく描けましたが、隙がなく、立派すぎて不本意です。

この反省をもとに、もう一度この題材に挑戦したいと思います。

それにしても日本の風景は美しいですね。

農業土木は一種の芸術だとつくづく思います。

水田はまるで巨大なインスタレーション芸術のようです。

自然と共生し、人工をうまく織り交ぜて生命維持に必要なものを大量に生産する。


日本の農業は日本人の美しいメンタリティ形成の上で重要な文化です。



















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日本探検を夢想しています。

4月。2日間だけですが、東北へ震災ボランティアに行って、色々考えました。

今日は、サバイバルについての考えについて書きます。

被災地・被災者への思いはありますが、今日は震災に限定したことではなく、これからの日本と世界をどう生きのびていくかについて、私が今考えていることを書きます。

被災地で過ごした2日間、自分がどれだけ有用な情報を持っているかが、いかに大切かということを痛感しました。

仲間の生存を保障する耳寄りな情報を持っていること。

サバイバルという問題があざやかに浮かび上がる被災地では、「情報の掌握」と、それを正確にすばやく仲間に知らせることが重要な意味を持ちました。

水はどこで手に入るか、というような情報。

ボランティアチームの中でも、避難所や村落などのコミュニティの中でも、それは当てはまることです。

そしてそれは仲間に重宝される鍵でもあります。

宝のありかを知っている男は、宝を狙う悪党に殺されることはありません。

情報が、安全保障装置となっているのです。

私が絵画教室というコミュニティの中で生徒の皆さんに重宝されるか否かは、絵を描くための重要な情報を正確にたくさん供給できるか否かにかかっているわけです。

一方目を世界にむければ、ものづくりにおいて世界との競争で負けがこんでいる日本。

日本の製品は高い。

日本社会の主要な生産物は、ものから情報へと比重が移行しつつあります。

絵画作品よりも、絵画作りのノウハウという情報の方が売れる。

昔の村社会でいえば、

たとえば「どこそこで作られている苗はたいそう冷害に強い品種で今なら半値で買えるそうじゃあ。」という情報を提供する人と、

農作物をせっせとり、村に富をもたらすお百姓さんと比べて、

どちらが村の中で大事にされるか。

たくさんの作物を作って村に富をもたらすことができる人は村で重宝されるでしょう。

昭和の日本はこの人でした。

けれどもその人が、自分だけが重要な情報を得ていて、村の仲間に知らせなかったらどうでしょうか。

信頼を失うでしょう。

仲間たちが知らない情報をいち早く手に入れて、それを皆に知らせてくれる人。

それが村のリーダーです。

これからの日本を、世界を生き残っていくには、情報の上流とでもいうような位置を獲得して、レアでフレッシュな情報を得てその価値を下げず、あるいはさらに上質なものにして下流に流す術を工夫して身に付けることが大切だと思います。

さて、日本発見。

私は今、日本探検を夢想しています。

探検は、まだ知られていない領域を探査して情報を採取し、その中から有益なものを人々に知らせる行為だといえます。

日本の漁村、山村、郊外の団地、旧街道沿いのスナック、下町、山中のラブホテル、港の見える丘、田園都市、官庁街など、その他日本のあらゆる場所にディープフォレスト、フォークロアを見出す試み。

日本の中に流れる土着性、土俗性に興味があります。

それは都市の中にもあるでしょう。オフィス街にだって巨大団地にだって土着性はある。

そしてもちろん、地方の村落に存在するであろう、強い結束、伝承、
あるいは因習。

そういった要素を、美術家の視点で採集し、採集したデータを美術家として構成し、作品世界に結実させたい。

柳田國男、折口信夫、南方熊楠、今西錦司、梅棹忠夫…。

というような人々は学術的な探査を行いました。

私は芸術的に探査したいのです。

探査、採集。

それで先日、写真のような日本探検採集セットを揃えてみました。

リュックと折りたたみ傘、少し大きめのメモパッドのような付箋とティッシュペーパー、デジカメ、手に入れたものを入れる透明ビニルケース、F0号のスケッチブック、筆箱、筆箱の中には芯ホルダー、芯削り、マスキングテープ、ペン型消しゴム、着脱式セーブル筆、水彩色鉛筆、鉛筆削り、水を入れるソース入れの容器、スポイト、小さい付箋、ものさしが入っています。

芯ホルダーでデッサンしたら水彩色鉛筆で色を塗り、スポイトでその上から水を垂らして筆でのばします。

これは写生だけでなく、頭に浮かんだ着想をその場でメモするためでもあります。

これで日本各地を取材して、それらを取捨選択し、切り貼りして味付けして構成してアウトプットして届けるのです。

インプット=採集(サンプリング)の用意はできました。

これからたくさんの情報を入手してストックしていきます。

問題はこの入手データのアーカイブ化と、アーカイブされたデータをうまく検索して、検索したデータを有意義な形になるよう。組み合わせることです。

その作業には論考が必要です。

旺盛で的確なフィールドワークと、

それを維持管理するシステムと、

入念な論考。

絵はものではなく、情報であるととらえてみる。

最後に、柳田國男のことばを引用して終わります。

「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」(遠野物語)











































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5月12日(木)は、六甲アイランドにあるCHICという施設で色鉛筆のワークショップを行いました。

CHICとは…
以下、神戸市東灘区のタウンマップのHPより

関西に在住する外国人のための情報センターです。日常の業務は、CHIC来訪者や電話、E メールによる質問に対する情報提供など。そのほか、生け花や書道、日本の歴史、日本語教室などの各種講座の企画運営や、観光ツアーの主催などを行っています。CHICでの活動は日本人でも参加可能です。

(説明以上)

六甲アイランドには外国人が多く住む、大きな30階建てのマンションがあり、その下にCHICがあります。

同じフロアには外国人用スーパーマーケットや図書室もあり、ちょっとした居留地というか、小都市みたいでした。

この日はデジカメを忘れてしまい、急きょ携帯で写真を撮りました。

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この日は徐行描きと色鉛筆3原色のワークショップでした。

左手に持った鉛筆を指し示すことで、モチーフを目でなぞりながら同時に右手の鉛筆で線を描きます。

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