清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2012年05月

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学校の正門横に、木沢正八幡神社があります。

この小さな神社で、毎年12月に霜月祭が開催されます。

画文集「いなとやまとしもつき」に登場した霜月祭で取材した神社がここでした。

5月1日、予定の仕事が早く終わったので、ふと遠山郷に行くことにしました。

遠山郷での展覧会開催のために動いてくださっている人がいて、その人の案内で翌日に展覧会候補地に行くことになっていたのですが、ざっと土地勘だけでも掴んでおこうと思って、下見に出発しました。

そして車を走らせていると、道沿いに「木造校舎 見学自由」の手書き看板が立っていて、何か気になり、引き返すとそこに小学校と神社がありました。

2009年の取材の時は、夜、連れて行ってもらったので、周りの景色は全く知りませんでした。

現地にたどり着いて初めて、ここがあの時の取材の神社だったのだと知りました。小学校はその横にあり、私はすぐにそこが好きになりました。

そして翌日の5月2日、仲介の人に展覧会候補地として案内されたのが旧木沢小学校でした。そこで展覧会をさせていただけないかなあ、と想っていたのです。

呼ばれたような、導かれたような、そんな気がしています。

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谷に下りてきました。

森林鉄道終点近くの旧木沢小学校。

昭和7年開校、平成3年閉校。

昭和期の面影を残す建物、用具備品が多く残っています。

私の推測ですが、バブル期を迎える前に児童数が減少したために、かえって買い換えられず、廃棄もされず、化石のように温存されたのかもしれません。

ここで8月に展覧会を開きます。

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標高1000mの下栗の眼下には渓谷が見えます。森林鉄道ははるかな底で、音もなく走っていたのでしょう。

崇高と深遠を縦横に駆け巡る神。

この土地で、8月に私のささやかな仕事を披露させていただきます。

神と、これを読んでくださっている皆さんに、このブログの場で、展覧会のあいさつをさせていただきますね。







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この土地で仕事・活動したいと願います。

神(または深遠または崇高)を感じていたいのです。

その祈念と工夫と、そして感謝のためにこのブログを書いています。

そこで歓喜することができた全ての要素(たとえばそこに生えている草、たとえば私の神経細胞)に、私は感謝します。

その感謝は、近代の科学技術にも向けられなければならないと思います。

モータリゼーションの整備されたこの時代だから容易にそこに行くことができ、デジタル通信網があるからこのブログを多くの人に届けることができるのですから。

このブログは単なる発信装置ではないようです。

ここは思考の場であり、思考を形成することが行動を形成し、行動を形成することが人生を形成するのだと思えば、ここは人生の操縦室です。

そして願い乞うことよりも、いかに私は歓喜することができたか、ということの方が、重要な思考のようにも思えます。

それを、人は感謝と呼ぶのでしょう。

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「いなとやまとしもつき」に掲載した下栗の絵。

この土地に住まう神が、私の絵を見つけてくれたことに感謝しています。

自分が描いた絵がこの土地に結びつけてくれたと、感謝しています。

空気の良いところに隠れ住んでいる神様。

自分の胸の中の、堆積した現世の汚濁塵芥の下に隠れ住んでいる小さな神様。

それらが、祈念と工夫で結びつく奇跡。

アートとはその祈念と工夫の一形態である、と定義づけできるかもしれないと、今思いました。

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