清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2012年06月

私がレッスンというナビゲーションの中で重視しているものは、相談である。

いわゆるカウンセリングとか、コンサルタントである。

カウンセリングは、あなたのお肌はこうですね。すると、こういう成分が必要で、そのためにはこの商品がおすすめです、というもの。

コンサルタントは、御社のデータを診断したところ、ここを強化すればこれだけ生産が伸びると思われます、というもの。

いわば診断ないし現状調査が出発点である。

美術の場合、明確な指標がない。〇〇指数といった目盛がない。

加えて、どこに向かえばいいのかというベクトルも多方向に向いている。

ある人にとってはまずいハンバーガーが、このハンバーガーのまずさがたまらん、やばい、素敵!といった現象はハンバーガー業界には存在しない。しかし美術の場合は存在するのである。

成分テストのような客観的な指標がない世界で、私がおもに援用しているのは、いわゆるコーチングと呼ばれる手法である。コーチングは、指導者があるターゲットを目指して被指導者をひっぱったり押し上げたりする指導ではなく、生徒を創造的主体ととらえ、その主体者自身が、コーチとの対話によって自分の主観を明確に自覚することを目指す手順である。

美術は、客観よりも主観が優位になり得る営みである。

通常、一般に同意されている客観性が、充分に同意されていない一部の主観的主張に負けることはあまりない。しかしこれがまれに起こった場合、イノベーション(新機軸の発生)やレボリューション(革命=価値の変革)と呼ばれる勝利が起きる。ルネッサンスであり維新である。

美術の生産物はイノベーションである。充分に同意されていない新しい事柄や価値を、同意され賞賛されるものに変えていく。同意できる物質を作り上げていく。その新しい価値を帯びた物質が生産物である。その物質がどのような意図で作られたか、という思想もまたそこには含まれる。我々美術家はイノベータ―であり続けることを課せられている。現状のおかしなところを見抜き、突破する、そのモデルを提示するのが美術家の務めである。ある意味、その重要性は政治家よりも重い(ただし現状の生活を扱う政治・行政とは異なり、美術は現実の生活に先行する生活様態や人間像を模索する「偵察」であるため、現状管理を伴わなければならない「本隊」の主導行為である政治よりは、格段に流動性と自由さを維持していなくてはならない)。

このように、周知され同意されている客観性よりも、「いや、でも俺はノン」だよと言える主観の比重が高いのが美術の世界の有様である。ただし、そのノンをうまくコミュニケートする力が必要ではあるが。

その有様は、一般的、常識的な生活感覚とは異なるものである。

であるから、美術家は往々にして周囲の無理解にさらされるのである。彼が指弾されるのは、彼の能力の問題よりも彼の現実的世間における位置にあるのだ、という視点を持つこと。とはいえ、能力の問題は例外なくここでもあてはまる。能力を測りがたいのが美術を理解しがたいものとしている一つの要因でもあろうが。

このように、主観の比重が大きい美術において、コーチングという手法がおおいに役に立つという実感を私は抱いている。ある明確な指標と目標がない世界で、どの方向に進もうとあなたの自由だ、という世界において、主体者自身がベクトル(矢印)を見つけるためには、自分に問いかける作業が大事であり、そのお手伝いをするのが、コーチでありコーチングという手法なのである。

そしてそう実感するには、おおいにわけがある。それは、私自身が講師としてことばを発する行為(まさに今書いている日記もそうだが)が、私自身の考えを明確化するからだ。

講師の仕事は、美術家としての私の思考を強化した。私こそがコーチされた、まさにコーチング的現象の生産物である。私が自分の情報を提供したと見えていたものは、美術家という主体者に資するものだったのだ。

生徒と読者の皆さんに感謝を申し上げたい。




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下栗の里、民宿みやしたの向こうに南アルプスをのぞむ。

夏は登山客でにぎわうと聞いた。

この宿から木沢の展覧会場まではおよそ20分ぐらいだろうか。

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6月5日、南信州遠山郷木沢。

旧木沢小学校にて歓待を受けた。

私はここに神州日本を見る。

ここでの展覧会は8月1日から。

このブログでも近日中に展覧会のお知らせをしたいと思う。

「はいかいいえか」、「正か誤か」、「白か黒か」、「ONかOFFか」といった、反対の性質を持つ2つの要素だけを両端にかかげ、そのどちらに価値があるかを評価判定する考え方を二値論理という。

これに対し、「はいといいえ」の間、「正と誤の間」、「白と黒の間」、「ONとOFFの間」など、2つに端に無数の段階を設け、それぞれの価値を測る考え方。そこには無限に刻まれた細かな値打ちのスケール(目盛、尺度)が存在する。

その考え方を推し進めると、絶対的な端は存在しなくなる。無限価値論では絶対的な正、絶対的な誤、絶対的な白、絶対的な黒、絶対的なON、絶対的なOFFは存在しないということになる。

美術において、この考え方に徹することは大事である。

美術とは、「何が美しいのか」「崇高とは何か」というような問題をめぐって、激しく視点を移動し、交代させる装置だと言える。この価値の変動(暴落もあれば高騰もある)を前提としたうえで、なお尊いものを追求する衝動であり、その具体的動きである。


無限価値論のいくつかの例を見てみる。

一つの共同体に、絶対視されている神がいる。しかし人々にもっと新しい、もっと偉大な神の概念が知られて、今まで絶対視されていた神は新しい神よりも崇拝される度合いが下がる。そして今度は3番目の神の概念が登場して、2番目の神の格が下がる。こうして、絶対的価値は変動する価値(=相対的な価値=何かと何かを比べてどちらがどういった尺度でどれくらいまさっているかの度合い)となる。つまり絶対的なものは存在しないという論理が導き出される。そして3番目よりも4番目、4番目よりも5番目というように、究極の最高値は存在せず、とりあえず今は知られていないが、より上位の神が存在するかもしれない、という考え方になる。
反対に、神などいないという考え方が絶対視されている共同体がある。神という概念に価値が全く与えられていない。しかし、その共同体に対して、もし知られていないおおいなる意志が作用して、大きな厄災が降りかかったように感じたとき、「天罰が下った」とか、「邪悪な神が存在する」などいった概念が共同体内で共有されたとする。そのとき、神などいない、神に価値はないという考え方は、「悪い神がいる。そしていないと思っていた神は、まだましな、何もしない神だった」という考え方に変わる可能性がある。無価値な神という究極の端っこは、ましな神という目盛に位置するようになり、悪い神よりももっと悪い神の存在が想定されるようになる。知られていないだけで、より悪い神が存在するかもしれない、という想定。そしてその悪さのスケールは、無限に伸びている。このような考え方が無限価値論理である。

生死に関しては、「生か死か」という二値論理ではなく、「どれくらい生きているか、どれくらい死んでいるか」という尺度を用いる。生きている時間的長さ、生きること対するエネルギーの用いられ方と量、生きた(生をもたらした)空間の広さ、生きることに携わった物質の質や量とともに、死んでいる時間的長さ、死ぬこと対するエネルギーの用いられ方と量、死んでいた(死をもたらした)空間の広さ、死ぬことに携わった物質の質や量といった尺度が、無限に広がり、無限に細かく刻まれている。

絶対的な白はなく、ある物質が光を発する、あるいは反射する度合いは無限の尺度を持っている。また、全く色が存在しないのではなく、色または色の影響がそこにどれくらいわずかに存在するのか、という度合い。それが白さの無限価値である。絶対的な黒はなく、ある物質が光(あるいは反射光)を全く含んでいない状態は無限の尺度を持っている。全くの闇はなく、どれくらいはるか遠くに光があるかという尺度がある。どれくらいはるか遠くに色の影響が存在するのか、という無限の尺度が存在する。

思考の固定化はよくない。視点のフットワークを軽くすること。こっちから見ればこうだがこっちから見ればなんと、こんな風になってるじゃないか。

そういうのが大事だと思う。





最近教室についてかんがえること

1.考え方をだいじにする。

ナビのいうことを生徒が教条的に絶対視することはよくない。

個々の指示助言はその時々の臨機応変な判断によるものであって、末梢的な指示助言を逐語的に守っていてはかえって本質を見失う。

大事なのはその指示助言の奥にある、考え方であり、理由だ。

その理由を納得せずに生徒が鵜呑みにして行動するのはよくない。

大切なのは多くの選択肢の中でなぜその行動をとるのかを決めるために、「相対的に」何々よりも何々の方が優れている、という「考え方」であり、そして柔軟さであろう。

そのためには、生徒とナビは、打ち解けた、相互に信頼し合える関係を築き、考え方が互いに浸透し、共有できる状態になるよう、努めなければならない。

また、ナビの表面的な指示だけを、生徒が自分の分析的判断抜きで実行している場合は、それを改善するよう努めるべきである。

私はそれを難しいこととは思わないが、往々にして時間が必要だとは思う。

そしてそれが効果を生むためには、なぜ自分がこう考えるのかを、ナビ自身がよーく落とし込む作業が大事になってくる。

そしてその作業は、往々にして生徒との対話から生まれるものだと痛感する。

そういう意味において、私たちの絵画教室はいぜんよりもいっそう「私たちの」絵画教室なのであって、いっそう「私の」教室ではないことを強調しておきたい。

私の美的感覚と経験、あるいは気まぐれによる指示だけがほしい人は、たぶんこの教室にはむかない。(私が気まぐれに出したサゼッションは多くの場合成功すると思われる。しかしそんなことに大した値打ちはないんだ。そうやって形成される権威の強化など、私には息苦しくていやだ。)

また、考え方を共有するために、対話する時間が必要がなんだ、という方針を理解できない人は、たぶんこの教室にはむかない。

技法的な知識は、ググれば(知りたいキーワードで検索すれば)ネットで答えが見つかるだろう。

私は技法の習得を軽視しないが、私が重視する、コミュニケーションや考え方の落とし込みを軽視する人には、他の場所へ行くことをお勧めする。

その点においては、私は独裁的でありたいし、それでいいと思う。

その点に同意できなければ、レッスンは苦痛でしかないと思うから。


その点をクリアすれば(同意していただければ)、主たる私と従たる生徒ではなく、主たる生徒と従たる私でもなく、互いに臨機応変に主導権を交代させ、譲りあいながらドライブを楽しめるだろう。



2.自分を「凸」的に前に出す。

私が「凹」的に自分を真空にして、捕手に徹することもできよう。

講師という仕事が専業の職業ならそれも可能かもしれない。

しかし、講師としての画一的技術伝達よりも、「作家」として思考したことがらの方が、どちらかといえばお値打ちなのではないか、と自分では思う。

(で、具体的な手の動かし方や混ぜる分量の実演紹介も大事だが、やはり考え方を伝える方が大事なんじゃないかな?あるいは上等なんじゃないかな?と私は思っている。)

多様な他者の考えを認めながら、自分の思考を自ら抑制なく伝えること。それが自分にとって大事だと思う。

だから私は遠慮を排していきたい。それは今の私の課題、弱点だ。

多くの発達過程の子どもが、反抗期というものを通過する。

反抗期の解釈もいろいろあるが、私は今、ある種の反抗期かもしれない。

内発的な自己主張が、他者の言い分を圧して勝利するべきだ、と思う場面が時々あるのだ。

教室の現場に関して言えば、行儀よさが生産にとって必要な時もあろうが、生産を生むためには行儀良さを締め出すことも時には必要だと思う。

その意味では、今書いているブログは重要な機能かもしれない。

せんじつめれば、行動よりも、思考に優位性を持たせてみよう、という試みか。

この思考ー行動の問題はバランスが必要だろう。どちらが欠けてもよろしくない。

ただ、私なりにレッスン現場での実地(=行動の結果)データがあり、作家としての、制作上の具体的経験(=行動の結果データ)があり、それらの個々の経験データを観察して分析し考察し、考えをやり取りする行為もまた、教室の現場でもっと充実していいと思う。

そしてその場合、私は私の考えをもっと前に出してもよかろう、という所感を抱いている。

今日は全く独白調の日記になった。ブログなのだから本来の姿に近いともいえるが。










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