私がレッスンというナビゲーションの中で重視しているものは、相談である。
いわゆるカウンセリングとか、コンサルタントである。
カウンセリングは、あなたのお肌はこうですね。すると、こういう成分が必要で、そのためにはこの商品がおすすめです、というもの。
コンサルタントは、御社のデータを診断したところ、ここを強化すればこれだけ生産が伸びると思われます、というもの。
いわば診断ないし現状調査が出発点である。
美術の場合、明確な指標がない。〇〇指数といった目盛がない。
加えて、どこに向かえばいいのかというベクトルも多方向に向いている。
ある人にとってはまずいハンバーガーが、このハンバーガーのまずさがたまらん、やばい、素敵!といった現象はハンバーガー業界には存在しない。しかし美術の場合は存在するのである。
成分テストのような客観的な指標がない世界で、私がおもに援用しているのは、いわゆるコーチングと呼ばれる手法である。コーチングは、指導者があるターゲットを目指して被指導者をひっぱったり押し上げたりする指導ではなく、生徒を創造的主体ととらえ、その主体者自身が、コーチとの対話によって自分の主観を明確に自覚することを目指す手順である。
美術は、客観よりも主観が優位になり得る営みである。
通常、一般に同意されている客観性が、充分に同意されていない一部の主観的主張に負けることはあまりない。しかしこれがまれに起こった場合、イノベーション(新機軸の発生)やレボリューション(革命=価値の変革)と呼ばれる勝利が起きる。ルネッサンスであり維新である。
美術の生産物はイノベーションである。充分に同意されていない新しい事柄や価値を、同意され賞賛されるものに変えていく。同意できる物質を作り上げていく。その新しい価値を帯びた物質が生産物である。その物質がどのような意図で作られたか、という思想もまたそこには含まれる。我々美術家はイノベータ―であり続けることを課せられている。現状のおかしなところを見抜き、突破する、そのモデルを提示するのが美術家の務めである。ある意味、その重要性は政治家よりも重い(ただし現状の生活を扱う政治・行政とは異なり、美術は現実の生活に先行する生活様態や人間像を模索する「偵察」であるため、現状管理を伴わなければならない「本隊」の主導行為である政治よりは、格段に流動性と自由さを維持していなくてはならない)。
このように、周知され同意されている客観性よりも、「いや、でも俺はノン」だよと言える主観の比重が高いのが美術の世界の有様である。ただし、そのノンをうまくコミュニケートする力が必要ではあるが。
その有様は、一般的、常識的な生活感覚とは異なるものである。
であるから、美術家は往々にして周囲の無理解にさらされるのである。彼が指弾されるのは、彼の能力の問題よりも彼の現実的世間における位置にあるのだ、という視点を持つこと。とはいえ、能力の問題は例外なくここでもあてはまる。能力を測りがたいのが美術を理解しがたいものとしている一つの要因でもあろうが。
このように、主観の比重が大きい美術において、コーチングという手法がおおいに役に立つという実感を私は抱いている。ある明確な指標と目標がない世界で、どの方向に進もうとあなたの自由だ、という世界において、主体者自身がベクトル(矢印)を見つけるためには、自分に問いかける作業が大事であり、そのお手伝いをするのが、コーチでありコーチングという手法なのである。
そしてそう実感するには、おおいにわけがある。それは、私自身が講師としてことばを発する行為(まさに今書いている日記もそうだが)が、私自身の考えを明確化するからだ。
講師の仕事は、美術家としての私の思考を強化した。私こそがコーチされた、まさにコーチング的現象の生産物である。私が自分の情報を提供したと見えていたものは、美術家という主体者に資するものだったのだ。
生徒と読者の皆さんに感謝を申し上げたい。
いわゆるカウンセリングとか、コンサルタントである。
カウンセリングは、あなたのお肌はこうですね。すると、こういう成分が必要で、そのためにはこの商品がおすすめです、というもの。
コンサルタントは、御社のデータを診断したところ、ここを強化すればこれだけ生産が伸びると思われます、というもの。
いわば診断ないし現状調査が出発点である。
美術の場合、明確な指標がない。〇〇指数といった目盛がない。
加えて、どこに向かえばいいのかというベクトルも多方向に向いている。
ある人にとってはまずいハンバーガーが、このハンバーガーのまずさがたまらん、やばい、素敵!といった現象はハンバーガー業界には存在しない。しかし美術の場合は存在するのである。
成分テストのような客観的な指標がない世界で、私がおもに援用しているのは、いわゆるコーチングと呼ばれる手法である。コーチングは、指導者があるターゲットを目指して被指導者をひっぱったり押し上げたりする指導ではなく、生徒を創造的主体ととらえ、その主体者自身が、コーチとの対話によって自分の主観を明確に自覚することを目指す手順である。
美術は、客観よりも主観が優位になり得る営みである。
通常、一般に同意されている客観性が、充分に同意されていない一部の主観的主張に負けることはあまりない。しかしこれがまれに起こった場合、イノベーション(新機軸の発生)やレボリューション(革命=価値の変革)と呼ばれる勝利が起きる。ルネッサンスであり維新である。
美術の生産物はイノベーションである。充分に同意されていない新しい事柄や価値を、同意され賞賛されるものに変えていく。同意できる物質を作り上げていく。その新しい価値を帯びた物質が生産物である。その物質がどのような意図で作られたか、という思想もまたそこには含まれる。我々美術家はイノベータ―であり続けることを課せられている。現状のおかしなところを見抜き、突破する、そのモデルを提示するのが美術家の務めである。ある意味、その重要性は政治家よりも重い(ただし現状の生活を扱う政治・行政とは異なり、美術は現実の生活に先行する生活様態や人間像を模索する「偵察」であるため、現状管理を伴わなければならない「本隊」の主導行為である政治よりは、格段に流動性と自由さを維持していなくてはならない)。
このように、周知され同意されている客観性よりも、「いや、でも俺はノン」だよと言える主観の比重が高いのが美術の世界の有様である。ただし、そのノンをうまくコミュニケートする力が必要ではあるが。
その有様は、一般的、常識的な生活感覚とは異なるものである。
であるから、美術家は往々にして周囲の無理解にさらされるのである。彼が指弾されるのは、彼の能力の問題よりも彼の現実的世間における位置にあるのだ、という視点を持つこと。とはいえ、能力の問題は例外なくここでもあてはまる。能力を測りがたいのが美術を理解しがたいものとしている一つの要因でもあろうが。
このように、主観の比重が大きい美術において、コーチングという手法がおおいに役に立つという実感を私は抱いている。ある明確な指標と目標がない世界で、どの方向に進もうとあなたの自由だ、という世界において、主体者自身がベクトル(矢印)を見つけるためには、自分に問いかける作業が大事であり、そのお手伝いをするのが、コーチでありコーチングという手法なのである。
そしてそう実感するには、おおいにわけがある。それは、私自身が講師としてことばを発する行為(まさに今書いている日記もそうだが)が、私自身の考えを明確化するからだ。
講師の仕事は、美術家としての私の思考を強化した。私こそがコーチされた、まさにコーチング的現象の生産物である。私が自分の情報を提供したと見えていたものは、美術家という主体者に資するものだったのだ。
生徒と読者の皆さんに感謝を申し上げたい。