清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2013年03月

イメージ 1
代々木公園にて。

イメージ 1
24日(日)、代々木公園にて。

桜は満開だった。

東京の夜空がピンクとグレーの混じり合った色で、それを背景に白くライトアップされた桜は不思議な感じがした。

飛行船が飛んで来て、熱帯魚みたいにゆっくり旋回していった。

イメージ 1
23日の夜、六本木では夜通しでアートナイトなるお祭りが開かれていた。

森美術館は朝6:00まで開館。

会田誠展を観た。

すごい展覧会だと思った。

会田誠は既存の枠を大きく乗り越えている。

美術やシーンというものを外から暴いてる。外から笑ってる。

道徳や教育や物語や権威、その弱点・嘘・劣化を暴いてる。

刺激を受けて、私も既存の枠を乗り越えたいと思った。

ただし反対側に。

病を、悲痛を、諧謔を、引き裂かれた心を、退廃と混沌をあぶり出すかわりに、統合を、志を、ロマンを信じていいのだと思わせたい。

それは現実的なんだ、憧れていいのだ、と思わせたい。

さすがに「始発で帰る」とかはきつかったので終電で帰ったが、電車がなくなりそうな時間でも、六本木は人でいっぱいだった。












イメージ 1
3月19日(火)から3月25日(月)までの1週間、東京に行って来た。

20、21日はダイアネティックスオーディティングという、カウンセリングを受けた。

メンタルなカウンセリングだが、精神疾患への対症療法ではない。

もっとオフェンシブな、あるいはパワー増進の機能を持つ。

それは過去の記憶を見ることで痛みの感情や肉体的苦痛を修復するメンタル技術だが、これにより感受性の感度が上がると同時に、理性的思考が高まる。

詩人(少年)と哲学者(賢者)に近づく。

それを受けた。

良かった。

ダイアネティックス。自分自身で13年間テストしたが、確かなメソッドだと思っている。

22日と23日はアートフェア東京を観て来た。

アートフェアは美術商が、市場を広げる目的で催される美術祭だが、市場の空気はつかめたと思う。

感想は…。市場の動向に合わせて制作したら多分みじめなことになる。

ここは最下流(一概に悪い意味でなく)。

コミュニケーションの受領点だ。

最上流は?それがアーティストだ。

美術家は源流に位置する者として、市場を追いかけてはいけない。

それはさかさま。

「作家は市場に対し謙虚であれ」という美術商がいたら、別れを告げるべきだろう。

彼が求め、得ることになるのはパンチュール(売り絵画家)の類いだから。

アーティストは謙虚になる代わりに生産しないといけない。

そして勉強(研鑽)を続けなければいけない。

謙虚であるか否かはその後の問題だ。

視察と営業で観に行ったのだが、営業の成果はなかった。

パイプを築くこと、自分を知らしめることは大事だが、自分の作品を扱ってくれる業者さんをゲットできなくても、今回は構わないと思っている。

今は生産が少なすぎるからその機ではない。

生産者にならなければ。プロフェッショナルにならなければ。と思う。

少し視点を変えると、アートフェアで感じた飢餓感を明確に意識すること。

私の心を満たしてくれる作品がここの市にはない。

私が本当にほしいのはこういうものだ、というのを具体的に形にできれば、この視察は意義があったと思えるだろう。





























イメージ 1
悪とは。

太宰治は「かすかな声」の中で次のように語った。

-------------------------------------------------------

「敗北とは何ですか。」

「悪に媚笑する事です。」

「悪とは何ですか。」

「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。」

-------------------------------------------------------

私(清原)は太宰に共感する。鋭いなあ、と思う。

悪とはなんだ。

神とサタンの戦いには何かロマンのようなものがある。

物語がある。

そうではなくて、悪はもっと受け身なものじゃないだろうか。

本当に醜い堕落は、意志の完全な欠落じゃないか、と感じている。

原因の反対側。

最初の意図を知らされないまま営まれるマリオネット。

何のためか分からずに回り続ける歯車。

ゾンビ。

10年以上前だったと思うが、「キューブ」という映画を観た。

あの映画は虚無的な、悪というものの本質をよく表しているように思う。

巨大なルービック・キューブみたいな箱の中に閉じ込められたらしき人たちが脱出を試みるが、一体その巨大な箱が誰によって何のために作られたのか、ついに解き明かされることはない。

私が思う悪とはそんな感じのものだ。対戦相手などいない。明確な目的もない。

自動的なプログラムがただまわり続けているだけ。

空洞。

そんな風に、残酷なこと非人道的なことは、完全なる受動性によって遂行されるんじゃないだろうか。

全き受動性。完全な無責任。

この全き受動性=全き無責任=悪

の反対側に、

全き能動性=全き責任=善

と対置してみると、うまくつじつまがあうような気がする。

今日の美術にこの考えを関連付けるなら、もう自動生成のような幻想は積極的に捨ててはいかが?と思ったりする。

自動生成。すなわち、白い画面を前にして、何かが降りてきて、夢中になって描いて、気がついたら見事な絵がじゃーんと出来上がっていた、というような。

そんなのは虚構だということ(たぶん)。

神秘的な降霊術のような手法を崇めるのはよした方がいい。

薬漬けをやめない精神医療とかも。

それこそ何かに憑りつかれてるんじゃないだろうか。

薬、薬、薬。トランス、トランス、トランス。

それは虚構。

大切なのは。意識を取り戻すこと。



















↑このページのトップヘ