清原絵画教室のブログ

神戸で絵画を学ぶ。初心者からプロまで。

2013年05月

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最新のカレンダーをアップします。

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よろしくおねがいします。


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続きを書きます。



昨年の暮れに3か所で遠山霜月祭を観ました。

その神事を執り行うのが禰宜様ですが、立ち居振る舞いの洗練ではなく、神への崇敬がどれだけ現れているかが、禰宜様の表現の強度を決めるのではないか、と感じはじめたのが今回の論考の出発点でした。

そこからはじまって、今、私の中では芸術の定義がだいぶ明確になったと思います。

無神論、唯物論、あるいは現世主義、刹那主義の思考フレームの中で表現を模索している限り、真の美、崇高に接近することは不可能だと思います。

無神論の圏内にいる限り、安泰を保障されている世界に生きている私たち。

会長?宇宙の設計者?神?バカかお前、という世界です。

いるはずのないやつにあいさつしてどうするんだよ、と彼らは言います。

そんな架空の奴よりも、俺たちを楽しませるものを創ってくれよ。

これが、こんにちの私たちの世界の、アートと呼ばれる空間に起きている現象だと思います。

おそらく、欧米において有神論が支持されなくなった過程と、モダンアートが発展した過程は連動しているでしょう。神との交信機能から切り離された芸術が生まれ、発展したのです。

産業革命のインパクトは、人類の精神構造を変えました。

そして今日の日本のアーチストは、そのモダンの影響圏の中にいます。

しかし無神論に基づいた世界観がアートを支配したとき、アートの凋落ははじまったと見るべきかもしれません。

芸術という美の宮殿は、無視論者によって乗っ取られたのかもしれません。

神に向かわない表現は、もともとはエンターテイメントと位置づけられ、神事に付属する「余興」として機能したのだと思いますが、むしろそうした大衆文化(娯楽)の中に有神論は生き続けているとも感じます。


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続きを書きます。

セザンヌやゴッホは敬虔なクリスチャンでしたが、彼らはまさに、神との交信を誠実に続けた人たちだったのだという理解が、私の中に生まれました。

彼らは大衆に向けてショーを繰り広げたのではありません。

人々に無視されたせいもありますが、どちらかというと大衆に背を向けて絵を描き続けたのです。

奉納という概念があります。神に祈祷や舞い、演奏を奉げ収める神事です。神楽がその代表です。

カトリックではミサという感謝の祭典がありますが、バッハ、モーツァルト、ベートーベンらがミサのための曲を作りました。

日本では多くの仏像、仏画、神像が、国の宝として大切にされています。

原始部族では、神に祈祷するために仮面や土偶を用います。

神楽、ミサ曲、ゴスペル、仏像、神像…これらは人々に奉げられているのではなく、むしろ人々に背を向けて、神に奉げられているのです。

祭祀をつかさどり、進行させる神官。司祭。人々は神官・司祭の運転するバスに乗って、しばし神の国に行くとも言えます。

バスの運転手が乗客の方に向いて運転することはありません。

そしてかつては宗教者である司祭・神官が担っていた「設計者との交信」の役目を、技術者・表現者が担うようになったのが芸術家の誕生であり、その時期が西洋においては初期ルネッサンスであり、その後の発展過程が、バロック以降の西洋美術史ではなかったかと思うのです。

これは、西洋における個人主義の発展とも関連しているでしょう。教団組織を通じてではなく、個人個人が直接神と交信して良いのだ、それが大事だという意識と動向が高まったのだと思います。

大会社の末端のヒラ社員が、会ったことのない会長とコミュニケーションをとる際に、部長や課長への伝達を通してのみ許されていたのが、これからは直接やり取りしていいのだという意識が確立し、普及していった。

そして、会長の思いを理解し、そのスピリットは自分の中にも流れていると自覚することが重要な認識になっていった。

そしてこのすばらしい大会社をつくってくれた会長にあいさつし、感謝し、大会社の発展のために自分も良い仕事ができるよう、祈った。

そのような、ヒラ社員と(会ったことのない)会長が直接結びつく世界。

それが神と個人が直接結びつく個人主義の世界だと思います。

教会を通じてではなく、個人が神恩感謝や祈りのあいさつを、神に奉げていけばいいし、それが大事ですよ、という世界観です。

個人主義は、平社員が、部長も課長も無視し、会長も無視して、自分や家族や気の合う仲間だけを大切にする考え方ではない。それは利己主義です。

今の世の中は、「会長なんて無視して、俺らと楽しく遊ぼうぜ」という誘いを断りづらい世の中です。

これは生きづらいと思います。本能的に、それでは会社がダメになると感じられ、憂いを漠然と感じていながらもなぜだか断る理由がないからです(多分、これをルシファー主義と呼んでも差し支えないと思います)。

なぜ断りづらいかと言えば、会長なんていない、いたってダメなやつに決まっている。会長がいたらもっとましな会社だろうさ、という考えが多くの人に共有されいて、「会長にあいさつしなきゃ」と言うとバカにされる空間を私たちが生きているからです。

しかし本当の美や感動は、そのような利己主義からは生まれないのだと思います。

何か栄光のような、憧れのような、崇高の中に、真の美は宿っているのではないでしょうか。

崇高な感じが、どこに立ち現れるのか。

ここに発見しましたよ、という。

それが詩であり、絵画であり、音楽です。

設計者さん、あなたの設計した世界の中に、あなたの凄味の宿っている事物がありますよね。

私はこれこれという事物の中に、あなたの設計の真髄を見ましたよ。

…というあいさつを、芸術家はずっとやっているのだと思います。

セザンヌもゴッホもバッハも。



ひまわりの中に、我、神の設計を見つけたり。

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続きを書きます。

仮にあなたの使っているコンピュータが、あなたの言うことに従わず、ネットワークでつながった他のコンピュータの言うことには従った場合、あなたはどう思いますか?

このコンピュータは使えない、と思うはずです。

この話のコンピュータを自分に置き換えてみましょう。

仲間の人間の言うことには耳を貸すが、上位の設計者の言うことには耳を貸そうとしない人間。それが無神論的空間を生きる人間の姿です。

私はこれまで、世界とはそのような無神論的空間だと思って生きてきたわけです。

しかし工学的に見た場合、上位の設計者を仮定すると、世界認識に整合性がもたらされ、体系化され、合点がいくのです。

そしてこの設計者との意志疎通が、最も重要な問題となって浮かび上がってきます。

そこで祭祀の登場となります。

最もインパクトあるコミュニケーション手段である、芸術。

その芸術は、たしかに人間同士をつなげる機能を果たして来ました。

しかしそれ以上に、上位の設計者とのコミュニケーションの方が重要だと考えたとき、芸術を祭祀の変形だと見なすことができます。

そして、芸術的価値は、上位の設計者と意志疎通する度合いで図られるのではないかと考えたとき、あーそうかー、分かった!と私は思いました。

つづく

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信州から帰ってきました。

前ページで、アイフォンでブログを書いたのですが、写真が載せられるようになっていたので初めて写真をアップしましたが、帰って今デスクトップのパソコンで見てみると、写真がひっくりかえっていました。まだちょっと要領がつかめていません。

さて、前の続きを語らせていただきます。

芸術とは神との対話だといえるのではないか、という話です。

ここで一応整理しておきたいのですが、神がどんな姿をしているのかは、全く分かりません。人格を持った人間みたいなのか、宇宙大自然の摂理のようなのか、全く分かりません。

計画かもしれないし、計画する存在かもしれない。

コンピュータを動かすのはプログラムですが、コンピュータはプログラムに従っているとも、プログラマーに従っているともいえます。

しかし肝心なのは、プログラマーでさえも、ある「考え」=プログラムのようなものを電気的な伝達信号に変えてコンピュータに伝えるということです。媒介者なのです。

いずれにせよ、神がどんな姿をしているかについての議論を展開しようとは思いません。それは全く分かりません。

ただ、人物みたいな姿に例えると分かりやすいから「設計者」ということばを使っています。

ですからこのまま「設計者」という例えを使いながら話を進めてまいります。

設計者(または設計)が世界を作ったと仮定してみると、宇宙のしくみについて、少し理解が高まるように思います。

1台のコンピュータに思考能力があったとして、それを開発した人間を最も重視する世界観です。

そのパソコンには、ネットワークでつながった10台のパソコン(=仲間)がいるとします。このネットワークは貴重なものなのですが、開発者の言うことを聴かずに仲間のパソコンの言うことを大事にした場合、開発者はこのパソコンが狂ったと見なします。

と、ここまで書いて、ものすごく眠くなったので、今日はここまでとします。なるべく早いうちに続きを書きますね。

みなさん、ごめんなさい、おやすみなさい(^^)















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