量子力学では、物質(粒子)も波動的な性質を持つとされている。
カナダ、ケベックシティ郊外のサンタンヌ・ド・ボープレ大聖堂付近には不要になった杖が積まれている。足の悪かった人々が聖堂を出る時には、松葉絵を捨てて帰るのである。
ある空間では気持ちがすっとして、ある空間が気分がげんなりする、ということがある。
電車やバスや、または静かな空間の中でおしゃべりしている人。同じような内容を話していても、それが良い話題であっても、声やしゃべり方が妙に気に障る人がいたり、気にならない声の人がいたりする。
これらのことは、同じ分子式を持つ物質(粒子)でも、波動性質が異なることの現れではないか。
美術品を波動という観点でとらえてみる。
美術館に多くの人が訪れるのは、鑑賞という視覚的な体験にとどまらず、案外その波動を浴びようとする無意識的本能的な行動なのではないか。
すぐれたアートは、すぐれたアーティストの手によって、良い波動を持つ粒子を良い波動を持つように組織化され構成された集合体である、という見方ができるかもしれない。
美術館や博物館で何百年、何千年と愛され守られてきた美術収蔵品は、霊験あらたかとされる仏像などのように、良い波動を発する物体ととらえてみるのも面白いような気がする。
とすれば、アーティストは自分という「粒子の集合体」を、良い波動に保つようメンテナンスしないといけない、という課題が浮上するだろう。
「ある空間や対象や磁場から良い波動を受信し、伝導体となって作品素材に伝える行為が美術制作だ」と解釈するとき、伝導体の状態が作品の波動を左右するのだから。
仏陀が悟りを開いたとき、「これは不思議だ。自分が悟ったら木も石も輝き、救われた」という意味の述壊をしたと何かの本で読んだことがある。その意味を、私は折に触れ咀嚼消化しようとしてきたが、ものには良い波動と悪い波動があると考えたとき、本質が理解できるように思うのである。
これは悟ったことによって自分の状態が変性して感覚が目覚め、物の見え方感じ方が変わったという意味もあるだろうが、自分が変性したことによって、周囲の環境の物質粒子の波動に変わったことを意味するのだ、と。
そして自分を構成する物質粒子も、良い波動に変性させる方法が存在するのだ、と。